「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会(重力敬三会長)の2010年度総会が5日広島市東区の二葉公民館で開催された。広島市内や廿日市市、呉市、府中町などの被爆者、戦争体験者をはじめ、社会人、主婦、大学生、高校生、下関原爆被害者の会など約40人が参加し、原爆と戦争展運動を軸にして広島の本当の声を広島全市、全国、世界に向けて発信してきた一年間の成果を確認。峠三吉の時期の力強い広島市民の原水爆禁止運動の本流を蘇らせ、若い世代にも大きく広がってきた運動に確信を深め、来年に向けてさらに飛躍させていく活気に満ちた総会となった。
はじめに原爆死没者に対して出席者全員で黙祷を捧げたのち、重力敬三会長があいさつ。
重力氏は、「65年前の8月6日、人類はじめの原子爆弾が投下され、閃光一下、街頭の3万は消え、押しつぶされた暗闇の底で5万の悲鳴は絶え、渦巻く黄色い煙が薄れるとビルディングは裂け、橋は崩れ、満員電車はそのまま焦げ、果てしない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島」と峠三吉の詩を読み上げ、「あれから65年の今年、みなさんの平和運動へのご尽力に深く感謝したい。今年もほとんどの行事を終え、私も90歳の坂を越すことができた。報告と意見を遠慮なく交流し、来年に向け意義ある総会にしよう」と呼びかけた。
つづいて、来賓として、伊東秀夫・下関原爆被害者の会会長のメッセージを同会の升本勝子氏が代読。広島の会の活動について「いまや広島市民にとってなくてはならない存在となっているだけでなく、被団協や秋葉市長などがオバマ礼賛の言動を振りまくなかで、“アメリカは核を持って帰れ”に代表される広島市民の本当の思いを伝える活動が、全国の被爆者や多くの人人に展望を指し示している」とのべ、「広島、長崎、沖縄、下関、全国の仲間と連帯して、戦争を阻止する力のある運動を推し進めよう」とのべた。
また、原爆展を成功させる長崎の会の吉山昭子会長から、朝鮮半島情勢が緊迫化し、戦争の危険が強まるなかで「いまこそ私たちの戦争、原爆の残酷さ、平和の大切さをしっかりと訴えていかなければいけない」とのメッセージも紹介された。
長周新聞社の竹下一氏は、「広島の会の活動が、全広島の声を全国、世界に発信してきた本流であることを確信する一年だった。みなさんの私心のない献身的な活動と純粋な情熱が、生き方を通じてその経験や思いを継承しようという若い人たちと響き合い、その動きが地響きを立てて広がっている。これが既存の“平和”と名のつく団体には見られないこの会の強さであり、きな臭さが増す情勢の中で、原爆の惨禍をふたたび繰り返させない全国的、世界的な運動の模範になるものだ」とのべた。
また、劇団はぐるま座の『原爆展物語』公演によってこの運動が全国に広がると同時に、峠三吉に代表される1950年代の運動が沖縄の基地撤去斗争の歴史的な支えにもなってきたことに触れ、「体験集や英訳も完成され、いよいよ広島の真実の声が勢いよく全国に発信されることになることを期待する」とのべ、ともに奮斗する決意を表した。
劇団はぐるま座の山宮綾氏は、原爆展運動10年の記録を舞台化した『原爆展物語』を広島、長崎を皮切りに全国で上演してきたことを振り返り、「広島や長崎の人人とともに舞台をつくり上げたことは私たちにとって大きな喜びであり、確信だ。先月の沖縄公演では、“沖縄県民と広島、長崎の心は一つだ”と強い反響が寄せられ、尖閣諸島や朝鮮半島が緊迫化するなかで精力的な公演活動になった」と報告。
また、来年3月の東京公演に向けたとりくみでは、空襲体験者をはじめ都民から歓迎を受けており、「広島の面目を一新させた運動を全国各地に広げていけることを誇りに、その一翼を担っていく」と力強くのべた。
つづいて、広島の会の犬塚善五事務局長から今年度の活動経過、決算が報告された。
活動報告では、2月の廿日市(第六回)を皮切りに、廿日市市吉和地区、北広島(第2回)、広島大学(第5回)、広島修道大学(第4回)、廿日市平良公民館、県立広島大学(第5回)の7地域、第9回になる袋町市民交流プラザでの広島「原爆と戦争展」をとりくみ、総計5000人にのぼる参観者を得たことを報告。また、47回になる被爆体験に学ぶ交流会、春・夏あわせて10校の修学旅行生、13校の地元広島の小中学校、大学などで証言活動を繰り広げるなかで、「日本の植民地的荒廃状況をもたらした第二次大戦と原爆の真実をいまこそ若い世代に伝えなければならないという被爆者、戦争体験者の切迫した思いが語られ」「原爆投下者への新鮮な怒りを共有し、平和のために行動する意欲がとりわけ若い世代の中で強まってきた」ことが明らかにされた。
そして、大学生などの若い世代が集団をなして運動の前面に参画してきたこと、11月には、この5年間の証言活動の集大成として広島被爆体験集第2集(22人の被爆・空襲・戦地体験を収録)と第1集の英語版を出版し、「若い世代、全国、世界に伝える活動も一段階を画した」ことが報告された。
戦争阻止する力拡大へ 原爆展更に広げ
精力的に証言活動に関わってきた男性被爆者は、「様様な活動の場で、被爆で苦しんだ経験とともに、この会に参加して八年間の活動で被爆者として学んできたことを若い人たちに一生懸命ぶつけてきた。最近では、小学生からも“その思いを受け継いでいきたい”という声が寄せられ、共有が広がってきたことがうれしい」とのべた。
また、「原爆記念日の核武装論講演や、“アメリカの核の傘は必要”という菅首相発言につづき、“核廃絶”といったオバマ大統領が核実験をやった。そのなかで広島、長崎市民が主導する核廃絶、戦争阻止の運動は、これからもっと大きな運動になると確信している」と力強くのべた。
広島大学の男子学生は、同大学の学生によって平和実践サークルを立ち上げ、来年1月13日に広島の会の被爆者を大学に招いて交流会を開くことを明かし、「これから学生スタッフとして、みなさんの活動を手伝うと同時に、学生主体の勉強会を開いて戦争、原爆、平和について学んでいきたい。ぜひ力を貸してもらいたい」と協力を呼びかけた。
また、参加者からは、「来年の東広島での『原爆展物語』公演をぜひ成功させたい。最近ではマスコミの北朝鮮バッシングが加熱しており、小学生の我が子さえ影響を受けている。だが、同時に戦争は絶対にしてはならないという世論も強いと実感している。このなかで戦争、被爆の体験を伝えていく活動の輪をさらに広げていきたい」(40代・公務員男性)、「次世代として被爆者とともに活動する人に一人でも多く参加してもらいたい」(60代・主婦)という意見や、語り手となる被爆者をさらに増やしていく必要性などが論議された。
さらに、会の創立10周年目にあたる来年度の活動方針として、「原爆と戦争展運動を軸にしながら、多くの戦争体験者との団結をいっそう強め、若い世代に被爆と戦争の体験を継承する活動を大学や学校にさらに広げて、戦争を押しとどめる平和の力を強大なものにするために奮斗する」ことが提起された。
すでに決まっている五日市(来年1月)、北広島町(4月)、呉市(5月)、広島大学(6月)、修道大学をはじめ、広島市周辺地域、職場、学校での原爆と戦争展を精力的に発展させていくこと、また、現役世代や学生など若い世代への働きかけを強め、大学平和サークルや青年学生平和の会の活動など青年独自の運動を促していくことなどが提案され、全員の拍手で承認された。
来年の飛躍にむけ交流 総会後の懇親会
総会後の懇親会では、和やかな雰囲気の中で、今年新しく入会した会員を中心に意見が交流され、全員が一丸となって来年に向けて奮斗する決意を固めあった。
広島大学の学生からは、「学内で平和サークルをはじめるが、なるべく多くの学生に被爆体験を聞いてもらうこと、学生の主体的活動の場としてサークルを活発にし、卒業後も全国の各地域で原爆展や広島の会とつながった交流会などが広がっていくことを目指したい」(男子院生)、「広島出身で小中高校を通じて平和学習を受けてきたが、自主的な活動をしたことはなかった。この会を通じて自主的に動き、伝えることを学んでいきたい」(女子学生)、「周りの人にリアリティをもって原爆の悲惨さを伝えていけるようにがんばりたい」(女子学生)など意欲的な発言が相次いだ。
市内の男子高校生は、「袋町での原爆と戦争展、『原爆展物語』を見て、県立大学での原爆と戦争展にははじめてスタッフとして参加し、深く感じるものがあった。これからも活動を通じて、戦争や平和について考え、伝えていけるようになりたい」と抱負をのべた。
若い世代の活発な発言に被爆者たちからは強い喜びとともに拍手が送られ、「33歳で被爆して、70年間は草木も生えないという広島で生きてきた。たった一発の爆弾で広島全市を壊し尽くし、焼き尽くし、何十万の命を奪った原爆をもう二度と使うべきではない。力を合わせて戦争を起こさないように努めていきたい」(98歳・婦人被爆者)、「両親が被爆で亡くなり、兄は沖縄戦で玉砕し、家族で姉と2人しか生き残らなかった。若い人たちの話を聞き、少少足が痛くてもがんばろうと心に決めた」(婦人被爆者)、「アメリカの報道機関が“広島は原爆の謝罪を求めていない”と公言していたが、これからはテーブルを叩いてでも広島の心を伝えていきたい」(男性被爆者)、「被爆者の方の怒りと今の政治に対する私たちの怒りはつながっており、65年前と現在は無関係ではない。これからもみなさんとともにがんばっていく決意だ」(30代・男性公務員)など、世代を超えて強い意気込みみなぎる交流が熱を帯びた。
はじめて参加した年配男性からは、今夏の原爆と戦争展を参観し「戦地では、被弾ではなく、食料不足による餓死やマラリアでの死亡者が多かったという証言を読んで衝撃を受けた。私は姉と弟が被爆死で骨もなく、家が燃えたので遺影すらなかった。両親の悲しみを胸に供養のつもりで毎年、供養塔の清掃をやってきたが、これからは後世に伝えるために役に立てるようにがんばりたい」と感極まった決意が語られた。
最後に、重力会長が「下関の協力のもとで旧日銀での原爆展を皮切りに広島の面目を一新された原爆展運動が10年間でここまで発展してきたことは感慨深いものがある。これからもみなさんの力を合わせて平和運動を盛り上げていこう」とのべ、来年に向けた高揚感を全員で共有しながら会は閉じられた。