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第7回長崎「原爆と戦争展」開幕

 第7回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会)が26日、長崎市川口町の長崎西洋館イベントホールで開幕した。被爆から66年目の夏が近づくなかで、「被爆市民と戦地体験者の思いを結び、若い世代、全国・世界に伝えよう!」のスローガンで開催された同展は、100名をこえる賛同者をはじめとする全長崎市民の平和への思いを束ね被爆市民がその経験と思いを大いに語り合い、全国、世界に発信していく場として全市的な期待を集めて取り組まれてきた。とくに、2万人をこえる犠牲者と12万人もの避難者を出している東日本大震災と福島第1原発事故のさなかで、原爆投下にはじまる日本の戦後社会の有様について根本的に見直す世論が強まっており、第2次大戦と被爆の経験、そして戦後復興の経験に立ち返り、平和で繁栄した日本を建設する被爆地の意志を全国に示す意気込みが高まるなかで開幕を迎えた。
 今回の展示には、第2次大戦の真実や「原爆と峠三吉の詩」パネルに加えて、新しく東日本大震災・福島第1原発事故の特集パネルが追加され、注目を集めている。
 そこでは、福島第1原発の事故の概要と被害の規模、さらに「なぜ地震列島に54基もの原発が」と題して、原発はアメリカが原爆を製造する過程のマンハッタン計画で生み出されたものであり、その日本への導入は「反原水爆運動=反米運動を沈静化させること、日本に核兵器を配備させることを日本政府首脳に飲ませる」目的を持ち、そのために、広島、長崎への原爆投下や第5福竜丸事件によって根強い「原子力アレルギー」を持つ日本の世論を転換させるキャンペーンを大大的におこなってきた経緯などが、専門家などの意見を織り交ぜながら明らかにされている。
 また、広島・長崎市民の生生しい放射能被害の経験を福島原発事故と比較し、原爆の焼け跡でイモや野菜を育て、魚を食べて復興させてきた経験とともに「福島が復興できないわけがない」という被爆市民の声を紹介。
 6月初旬に原爆展キャラバン隊が福島県内各地でおこなった街頭原爆展のなかで福島県民から寄せられた「福島を必ず復興させる」との声を紹介するパネルも掲示され、被爆市民の世論が原発震災で苦しむ被災地や全国を励ますものであることが伝わる内容となっている。

 平和築く大切さ訴える 意気込み高く開幕式 

 午前10時に開館された会場では、開会を待ち望んでいた市民、賛同者など数十人が参加し、開幕式が開かれた。
 はじめに原爆展を成功させる長崎の会の吉山昭子会長が挨拶し、「いよいよ第7回目の原爆展がはじまる。あいにくの悪天候のなかでもたくさんの皆様に来ていただき非常に心強く思う。私は被爆当時、16歳で県立高等女学校の2年生だったが、戦争によって人生をめちゃくちゃにされた。多くの友人を原爆で失い、寂しい思いをたくさんしてきた。なによりも平和を築くことの大切さを大いに訴えていきたい。展示内容も昨年以上に豊富になっており、しっかり見ていただきご意見を聞かせていただきたい」と呼びかけた。
 続いて、共催する原爆展を成功させる広島の会の重力敬三会長、下関原爆被害者の会の伊東秀夫会長から送られたメッセージが紹介された。
 重力氏は、「被爆66年目の夏がやってきたが、あの惨状は死んでも頭から消えることはない」とし、「福島第1原発の事故が起きた今こそ、原爆の惨状と放射能による被害を体験してきた私たち広島と長崎の被爆者が本当の声をあげていかなければならない」こと、また、在日米軍基地問題がふたたび再燃するなど「戦争を始めようとする状況は変わっておらず、私たち同志は、命をかけてこれを阻止しなければならない」とのべ、被爆地としての絆を深めて尽力する決意をのべた。
 伊東氏は、第1回展以来、長崎の会が私利私欲なく、広範な人人に奉仕する精神で活動してきたことが全市的な信頼を得てきたことを強調したうえで、「福島第一原発事故に、原爆によって悲惨な体験を強いられた被爆者は新たな怒りを燃やしている。アメリカの口車に乗せられて広島、長崎の深刻な体験を無視して“安全性の神話”をでっちあげてきた結果」であり、原水爆の禁止、原発の廃棄とともに「原爆被害のなかから自力で立ちあがり、長崎を復興させてきた体験」を被災地や全国に発信していくうえで連帯する決意を伝えた。
 田上富久長崎市長のメッセージが代読された後、参加者を代表して被爆者の山村知史氏、学生の中島友野氏がそれぞれ抱負を語った。
 山村氏は、西坂小学校2年生のときに自宅で被爆した経験をのべ、「空襲警報によって学校から家に引き返したところで11時2分を迎えた。すさまじい爆風で建物の下敷きになり、血が吹き出し、そのままでいたら焼け死んでいた。それは東日本大震災の被災者と重なるものがある。原子爆弾だと知らされたのは秋になってからだった。これまで鳴りを潜めていたが、戦争を感じる時代になり、米軍や連合軍に長崎の声をアピールしてやらなければという気持ちで語り始めた。皆さんとともに元気で頑張っていきたい」とのべた。
 中島氏は、「昨年の原爆展以来、広島にも行き、被爆者の方方の話を聞いて、戦争について知らないことばかりだと感じた。何も知らずに戦争に賛成している若い人もいるが、いかに平和が大事であるかということを広げていくべきであり、被爆者、戦後復興に携わってこられた人たちの意見に学んで私たち若い世代が中心にならなければいけない。つらい体験を語ってくれる被爆者の方たちの思いを受け継いで活気をもって活動していきたい」と抱負をのべた。熱のこもる発言に参加者からは大きな拍手が送られた。

 歴史の継承へ強い意欲 世代こえ続続と参観 

 雨の降りしきる悪天候のなかでも、会場には、年配者、親子連れ、会社員、看護師、教師などの市民をはじめ、沖縄、東京、千葉、宮城、山形からも出張中のサラリーマンや旅行者など約150人が来場した。
 若い世代が多いのが特徴で、真剣にパネルに見入り、320万人もの犠牲を出して終結した第2次大戦の実態と日本社会の現状を重ねるとともに、東日本大震災まできた日本社会の将来展望について問題意識が口口に語られた。
 台湾からの引揚者の婦人は、「昭和21年、親戚のいた長崎に引き揚げて、原爆の悲惨さをつぶさに感じ、白バラ運動などの婦人会活動をはじめたのが私の戦後出発の原点だ。その後、広島でおこなわれた第1回原水爆禁止世界大会にも参加した。一文なしで帰ってきた私たちにお百姓さんが小屋を貸してくれたり助けてくれたが、食料不足でトウモロコシのしぼりカスや道ばたの雑草さえ摘んでは食べていたので栄養失調で苦しんだ。豊漁のときに行商で売りに来るイワシが唯一のご馳走だった。東北の震災を見ていると、終戦後と重なるものを感じるが、野や海があったからこそ復興ができた」と語った。
 また、昭和30年代から国の行政機関に勤めて復興や生活相談に応じた経験を明かし、「日本全国が焼け野原になり、日本に蓄積された復興の経験は膨大なものがある。当時、私たちもその経験やノウハウを後世に伝えるためにたくさんの資料を作ったが、その後の数十年の間にそれらの復興資料がすべて捨てられていることがわかった。今回の震災でまったく行政機構が機能していないが、歴史的な教訓が意図的に断絶されている。戦後の経験が生かされていればこれほど右往左往する必要はない。戦争を二度と繰り返させないのではなく、歴史を忘却させてふたたび戦争に向かう恐ろしさをそこに感じている」とのべ、「歴史を受け継いで、世代がかわってもつないでいく活動が今からは一番大切だと思う。そういう人材を育てる必要がある」と原爆展運動への共感をのべた。
 日赤看護学生として被爆者救護に携わった85歳の婦人は、「終戦直後の8月20日、大阪から長崎に帰ったとたんに召集がかかり、特設救護所になった新興善小学校で被爆者の看病にあたったが、薬もなく、ただ油を塗ったり、水を飲ませるのが関の山だった。市内にはあちこちに死体が重ねられ、足をつかんで“助けてくれ”といわれた声がいまだに忘れられない。先輩の看護婦たちが、自分も家族を失ったり、乳飲み子を抱える身でありながら献身的に看病にあたっていたのを見て、自分も志願で看病を続けた」と話した。
 「主人の家族は、爆心地のすぐ近くに実家があったため両親も弟も爆死して見つからない。兄は、昭和18年に軍に召集されて南方へ向かう船に乗せられ、鹿児島沖で米軍の攻撃を受けて船もろとも沈められた。残った3人兄弟は、被爆で4年ごとに一人ずつ死んでいった。戦争中、警察に追われながらも戦争反対をいい続けた人たちもいたが、その大切さを身にしみて感じている。アメリカは、大阪空襲でも日赤病院のど真ん中に250㌔爆弾を落としてたくさんの同僚や患者さんが亡くなったが、血も涙もないことを平気でやる国だと思う。今回の原発事故も、結局は国の上層部が責任をとらずに国民に押しつけている。私もなにかできることをやりたい」と協力を申し出た。
 夫とともに参観した自営業者の婦人は、「父も含めて被爆者は、福島原発の騒ぎを見て、“原爆も戦争ももっと悲惨だった。マスコミも大騒ぎしすぎではないか”といっている。放射能について間違った情報を流して、住民を追い出していく思惑も感じるし、震災を通じて利益を得ようとする強者が食い物にしていく構図は戦争と重なる。イラク戦争でアメリカのチェイニー副大統領の会社が、復興需要で大もうけしたというが、今回も同じだ。何度見ても、これは絶対に受け継がなければいけないし、日本中に語り継いでいかなければいけないと思う」と話した。
 また、「戦後は、国鉄民営化、郵政民営化で全部大企業だけがおいしい目をしてきたが、いまや若い人たちにも仕事がなく、現役社員も生きていくのに大変な状況だ。どうしてこうなっているのか、本当の歴史を学んでいきたい」と語り、現代社会を経済的な視点から分析している「資本主義の国家破綻」(鎌倉孝夫著)を購入していった。
 被災地支援のために被爆地の経験を学びにきたという沖縄出身の男性(30代)は、「この実態をみて、自分たちの認識の甘さを痛感した。歴史的に見れば現在の政治は戦争からずっとつながっている。沖縄でも米軍基地に囲まれた町は日本であって日本ではない。辺野古移転か普天間存続かといっているが、アメリカの都合ですべてが決まること自体にみんな怒っている。いま福島や宮城などの被災地も同じ境遇にあると思う。かつての戦争で政府が国民を見殺しにしたように、いまも意図的な見殺しがやられていると感じる。そのなかで自分たちがやるべきことを真剣に考えなければいけない」と真剣な面持ちで語った。
 連れだった同僚も、「戦争の経験と重ねることで、なぜ政府が大規模な復興計画ばかり考えて、住民の生活を支えないのか、住民の要求を聞かずに、上の要求で物事を進めているのかがわかった。8月6日には広島に行って直接話を聞きたい」と意欲を語った。
 会場では、長崎の会の被爆者や学生などが受付や案内などを献身的に担いながら、参観者との交流を深めている。原爆と戦争展は、7月3日(日)まで開かれ、最終日の午後1時30分からは会場内で広島、下関の被爆者との交流会が開かれる。

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