長崎市の長崎西洋館で開催されてきた第7回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会)は3日、およ1000人の参観者を集めて8日間の会期を閉じた。東日本大震災、福島原発事故がいまだに収束のメドがたたず被爆や戦後復興の経験に対する全国的な関心が高まるなかで、「被爆市民と戦地体験者の思いを結び、若い世代、全国・世界に伝えよう!」のスローガンで開催された同展は、全市的な期待を集め、被爆地長崎の本当の声を束ねて全国に発信する起爆力となった。長崎の会や被爆者たちの献身的なとりくみに触れるなかで、会期中に新たに賛同協力を申し出た市民は100人を超え、被爆地の世論を束ねる市民の結束力も強まった。
最終日に向けて参観者は増え続け、家族連れや親子、会社員、学生、スポーツクラブなどの団体で訪れる若い世代の真剣な参観が目立った。また、被爆者や戦争体験者も多数参観し、被爆体験を語り継ぐ強い使命感を告げていった。
87歳の男性は、「21歳のときに軍隊に入隊し長崎要塞司令部へ配属された。通信の特殊訓練を受けるために4人で横須賀へ派遣された。その前日がちょうど東京大空襲のあった日で、視察として東京の惨状を目の当たりにした。一面が焼け野原で言葉では表せないほど無惨な光景だった。父は37歳で召集され、南京攻略で戦死。兄は海軍で艦船に乗っているときに敵の潜水艦に撃沈され、乗員もろとも海へ沈んだので遺骨もない」と無念そうに語り、「戦争ほど惨いことはない。人の命、心まで奪ってしまう。体験した者が後世にこの真実を語っていかなければいけない」と勢いよく語った。
原爆で家族5人を亡くしている女性は、「戦争時代を生き抜いてはきたが、戦地での実情を初めて知った」と第二次世界大戦のパネルに見入っていた。
「お国のためといって兵隊に志願しても武器も食料もないなかに駆り出されていたのか。多くの命を奪った戦争は二度とするものではない。アメリカは絶対に許せない。戦争が終わっても日本を支配し続け、いまや日本の風習が破壊されてきている。アメリカの思うがままに日本政府も加担し、日本国民を犠牲にしてきた。このままではいつか破綻して、もっとアメリカ従属を強めていくことになる。そうなる前に日本を立て直さなければいけない」と語った。
娘と参観した80代の被爆者の女性は、徳島県に疎開していて直爆は受けなかったが、看護の資格を持っていたので実家に召集命令が届き、原爆投下後に長崎市内の病院や学校などで介護にあたった経験を話した。薬も介護用品もないなかで必死に看病したが、次から次に人が息を引き取っていったことなど「忘れようにも一生忘れられない。二度と戦争があってはならないと強く思う」と強調した。
また、50代の娘は福島原発事故について触れ、「父母も高度の放射能を浴びて原爆症ともたたかいながらだが、今も元気だ。その経験からすると福島原発事故に対する政府の政策が明らかに違うと感じる。今長崎で暮らしているのも、被爆者が懸命に焼け野原のなかで生活を立て直してきたからだと痛感している。みなが真実の報道を求め、この先どうやって復興していくのか考えているが、それは歴史のなかで体験者が、父母自身が体験し実証していることで、その体験を学ぶことが非常に大事なことだ。福島や東北の人にもぜひ広島、長崎の復興の歴史と思いを届けて頑張ってほしい」と話した。
福島原発事故等論議に 将来の日本考え
2人の子どもを連れて参観した若い母親は、「この原爆展をぜひ見なければと思って参観した。城山小学校出身で平和教育を受けてきたが、知らないことがたくさんある。3月11日の震災後から社会を見る目が変わった。福島原発の事故で母親として、若い世代として広島、長崎の経験を学ばなければとの思いが強くなった。メディアから流される情報は真実だとは思えないし、みなが真実の報道を求めている。この展示パネルを見て実際に体験された方の思いに学ぶ事が多かった。この先10年後、20年後の日本はどうなるのか、このままではいけないと切実に感じている。行動していかないといけないと思う」と感想をのべた。
長崎市出身で三重県から来た女性は、「知ろうとしなければわからないことが多い。戦争についても学校の授業だけでは知らないことばかりだった。改めて戦争の怖さを痛感したが、今福島原発事故が社会問題になるなかで、それをきっかけとしてこのままの日本でよいのか真剣に考えさせられている。長崎は原爆体験をして一番放射能の怖さを知っている。長崎が戦後どのように復興してきたのか、パネルの年表も見たが、かならず復興できることを証明している。政府はその経験を教訓にせず、福島県を無人にしてしまおうというのではないか。それは、原発建設を推し進めてきたアメリカの思う壺になるということだ。米軍基地問題にしてもすべてアメリカによって日本が犠牲を受け、日本国自体がつぶれかけている。そうなる前に、長崎や広島が示してきたように被災者自身の力で復興させていくように動くべきだし、同じ日本人として日本を立て直すためにぜひ協力したい」と話した。
被爆二世の女性は、「福島原発事故をめぐって疑問に思うことがあったので、パネル展示を見て考えさせられた。両親が被爆し、自分は乳がんにかかっている。戦後66年たったが、今も原子爆弾の被害は続いている」と話し、被爆者交流会への参加が将来について真剣に考える機会になったと話していた。
14歳のときに爆心地から1・8㌔で被爆した女性は、「母は10時50分頃に畑仕事をするために外へ出たが、真っ黒焦げになって死んでいった。自分は本家の一番奥の部屋にいたためケガ一つしなかったが、原爆で家族、親戚を大勢亡くした。なぜ原爆が投下されたのか。アメリカの残酷さは人間とは思えない。空襲、原爆から戦後の日本支配まで、自国のためなら他は関係ないというでたらめな国だ。日本政府は振り回されてばかりいるが、なぜダメなものはダメとはっきりいえないのか。日本の内部までも握られているようで、このままだと何が起こるのかと恐ろしい。アメリカに都合が良いような政治家ばかりが出回っているようで腹が立つ。また戦争が起こるのではないかと思うと身が震える思いだが、戦争体験者としてもそれは必ず阻止しなければいけない。若い人に伝えていくことも重要な役割だ」と賛同者に名を連ねた。
午後5時からおこなわれた閉幕式にはおよそ20名が参加し、原爆と戦争展の成果が確認された。
会場で体験を語ってきた長崎の会の会員からは、「今回は非常に熱心に見ていく人が多く、感心した」(婦人被爆者)、「若い人たちが多く、一人でも多くの人に今後も伝えていきたい」(婦人)などの決意が語られ、学生たちも「これからは体験を学んだ若い世代が中心になって活動をやっていきたい」「今まで知らなかったことを知り、若い人たちに伝えなければという気持ちになった。これからも参加したい」と語られた。
初めて参加した年配婦人は、「長崎市民であり長崎県民である以上、原爆の悲惨さを世界に知らせる義務がある。私は引き揚げ体験者だが、幼少だったのであまり記憶がないが、写真を見て本当に自分のことのように感じる。今後とも私ができることは努力していきたい」と抱負を語った。