2011年原水爆禁止広島集会(原水爆禁止全国実行委員会主催)が6日午後1時から、広島市中区のアステールプラザで開催された。「広島、長崎の新鮮な怒りと戦争の真実を若い世代に、全国、世界に伝えよう!」「アメリカは核を持って帰れ!」をスローガンに、広島では第10回広島「原爆と戦争展」が開催され、4日には劇団はぐるま座の『峠三吉・原爆展物語』公演が昨年に続いてとりくまれた。また2カ月にわたって毎週末に平和公園での街頭原爆展、原水禁全国実行委員会による全市的な宣伝がくり広げられ、東日本大震災と福島原発事故、その後の復興の現実から日本全国で原爆投下から続く日本社会を根本的に変革する熱気が高まるなか、平和の力の大結集を訴えて関心を集めた。その集約点となった集会には小・中・高校生、大学生や現役労働者など若い世代をはじめ、広島、長崎、下関などの被爆者・戦争体験者、全国で原水爆禁止運動を担ってきた人人、広島市民など約450人が参加。原水爆戦争を阻止し平和勢力を大結集する意気込みあふれる集会となり、10年来の運動が確かな力を持って全国に広がっていく展望を示すものとなった。 命ある限り体験伝える 被爆者熱こめ訴え 集会では66年前、原爆で亡くなった人人に参加者全員で黙祷を捧げた後、原水禁全国実行委員会の川村なおみ事務局長が基調報告を提案した。その後劇団はぐるま座が原爆詩人・峠三吉の詩「すべての声は訴える」「八月六日」「その日はいつか」の三編を朗読したのち広島、長崎、下関の被爆者が発言に立った。 原爆展を成功させる広島の会の森永ヨシヱ氏は、「66年前に1発の原子爆弾で一瞬のうちに町が吹き飛び、焼け野原になって大勢の方が亡くなった。生き残った私たちが次の時代に語り続けなければいけない責任がある」と口火を切った。脳裏に焼き付いている光景を涙ながらに語り、「次の世代に二度とこのような悲惨な思いをさせてはいけない」と子どもたちに体験を語ってきたこと、10回目を迎える原爆と戦争展や劇団はぐるま座の『原爆展物語』公演の広がりに期待を寄せた。 東日本大震災と原発事故で先行きの見えない社会になっていることにふれ、「原爆で七〇年草木も生えぬといわれた広島は市民の力で立ち上がった。今こそ国民が一致団結して社会を変えていくとき。この運動を広島をはじめ全国に、世界に広げ、戦争を二度と起こさせない平和の力を束ねることができると確信している」と力強く結んだ。 原爆展を成功させる長崎の会の吉山昭子氏は、福島原発事故が起こり、周辺の土地から住民が追い出されていることに対して、原爆で肉親や友だちを多く失ったことをのべながら、「放射能の怖さはよく知っている。それでも長崎を立派に復興させたことを思えば、福島も必ず復興できる。政治家にその気がないだけだ」と強く語り、アメリカいいなりの植民地となっている日本の現状への怒りを語った。今年の西洋館での原爆と戦争展にたくさんの若い世代が参観に訪れたことを報告し、「原爆の悲惨さ、平和の大切さを語り継ぎ、平和な日本をつくるために残された日をみなさんと力を合わせていきたい」と語った。 下関原爆被害者の会の平野兵一氏は6歳のとき長崎で被爆し、戦後苦しい生活のなかで生きてきた経験を語った。家族とともに父の田舎に移り、食べる物もないなかで必死に生活し、そのなかで兄、父、母が亡くなっていったことを語った。「被爆者が今一番思っていることは、東日本大震災と原発事故による東北地域の状態だ。福島原発の放射能漏れがいまだに止まっていない。これほど未解決の原発なら日本中の原発はすべて停止させるべきだ」とのべた。また政府が住民を地域から追い出し、見通しが持てないようにしていることにふれ、「66年前に広島でも長崎でも避難などせず、現地で生活し生きてきた。二度とふるさとに帰れないような政府あげての動きに負けてはいけない。農漁業を中心に産業の復興に力を入れてほしい」と力を込めた。そして下関でつくったパネルが全国を回り、劇になって深い感動を与えていることへの喜びを語り「これからも会員が支え合いながら、全国の皆さんと力を合わせたい」と語った。 ここで台風で参加することができなかった沖縄の復帰斗争経験者である伊計光義氏(うるま市文化協会顧問)と運天清正氏(うるま市文化協会会長)からのメッセージが紹介された。 その後、5日から広島を訪れ被爆者から体験を学んできた「広島に学ぶ小中高生平和の旅」の子どもたちや引率教師ら約100人が登壇。旅に向けた各地での街頭署名カンパ活動や、被爆者の話を聞いて学んだことを感想を織り交ぜながら構成詩にして発表した。「自分たちのもうけのためにウソばかりつき、戦争になっていくような今の世の中を変えていくために、被爆者やまじめに働いて世の中を支えているお父さんお母さん、たくさんの方方の思いをこれからもっと真剣に受け止めていく」「多くの人人の役に立つ立派な青年になって、平和で豊かな日本にするために、平和の旅、平和教室の活動を更に発展させていきたい」と決意をのべ、会場から大きな拍手が送られた。 若い世代続続と行動へ 原爆展物語の取組等 意見発表にうつり、劇団はぐるま座から1年間全国で展開してきた『峠三吉・原爆展物語』公演の様子や、福島県での街頭原爆展キャラバン隊の反響が報告され、学生や教師、下関市民の会などからこの間の運動と、被爆者の思いを受け継いでいく決意が語られた。 劇団はぐるま座の近藤伸子氏は、広島、長崎をはじめ東京、沖縄、山口、佐賀県下での公演の経験を報告。「とくに三月の東日本大震災、福島原発事故以来、人人の意識が切実感を増して全国的に急速に動いてきていることを感じる」とのべた。日本を立て直すためにどうしていくかが世代を超えて鋭く語りあわれ、戦争体験世代が「戦後ずっと真実が隠されてきた。この作品で初めて真実が明らかにされた」「救国のとりくみだ」と並並ならぬ思いでとりくみの中心を支えた。沖縄では五〇年代の復帰斗争や土地斗争など米軍と直接対峙してたたかった経験を持つ人人が牽引力となり、運動が広がったこと、若い世代が真剣に生き方を求める姿も特徴的で、戦争の真実を知り「私心なく活動するスタッフのような生き方がしたい」と、続続と行動に参加していることなどを報告。「上演運動を通じて、根本変革を願う全国の人人を結びつけ、戦争を阻止し、日本を変える国民的規模の運動の一翼をさらに奮斗して担っていきたい」とのべた。 斎藤さやか氏は福島県内五カ所と宮城県仙台市での原爆と戦争展キャラバン隊の行動を報告。広島・長崎の経験から「福島が復興できないわけがない」と被爆地の声を紹介したパネルが福島の人人に大きな激励を与えたこと、福島県下では必ず復興させるという力がみなぎっていたことをのべた。「戦後アメリカにつき従って延命してきた上層部が日本中に原発をつくって産業をつぶし、原発依存型の町に変えたことなどが語られ、“アメリカに従えば明日はない”と話された。多くの人が根本的に変えなければいけない、たたかわないと生きていくことができない社会になっていると真剣な思いが共通して語られた」と語った。 体験受継ぎ全国で運動 学生や教師意見発表 長崎の大学生は、長崎の商店街で原爆と戦争展キャラバン隊に出会い活動に参加し始め、長崎や広島の被爆者の体験や思いにふれるなかで「その心を受け継ぎ、語り継ぐことの必要性、戦争を阻止することの大切さ、核兵器を廃絶させることの重要性を再確認した」と語った。 今年の原爆と戦争展にスタッフとして参加し、同じ志を持つ若者同士のかかわりを深めたことを報告。「日本のこれからを担っていく人たちの平和への意識が高まっていることを感じた」「一人一人の力は微弱でも大勢になればきっと今の日本を、そして世界を変えていくことができる。全国、全世界から核がなくなるまでともに頑張っていこう」と力強くのべた。 山口県の小学校教師の佐藤公治氏は、20年余り政府・文科省が進めてきた「個性重視」「興味・関心」の自由主義改革により、基礎体力・基礎学力が著しく低下している学校現場の実情と、それを打開する教師たちの実践が始まっていることを報告。東日本大震災後、子どもたちが「おもしろおかしく生きていく生活態度ではなく、みんなで力を合わせて、みんなの役に立ちたいと行動を起こし、真面目に社会や生活のことを考えている」と飛躍的に変化していることを語り、「私たち教師は、今発展している子どもたちや人民大衆の意識と切り結び、この社会をどうするかという時代意識を持たなければ勤労父母が期待する教育の方向は見えてこない」「核戦争反対・原爆反対の先頭に立って教育運動を発展させていきたい」と決意を表明した。 続いて下関市民の会の本池妙子下関市議が発言。安倍・林代議士の支配が長年続き、全国最先端で市民生活が衰退している下関の現状と、市民の力で下関を変えようという運動が力強く広がっており、そのなかで市民代表としての議会活動を報告。「下関の現状は原爆投下に始まるアメリカの占領支配と、戦後の対米従属の政治が市民生活を破壊、社会を崩壊させている全国の縮図だと思う」とのべた。市民の会は「30万市民のため」という方向で運動を発展させてきたこと、原爆の問題は下関市政の根本を考えるうえで重要な問題であることにふれ、「これからも下関の被爆者の活動を支えながら全国のみなさんとともに、二度と原爆も戦争も許さない大きな力をつくっていきたい」と語った。 原水爆禁止沖縄県実行委員会の源河朝陽氏の報告が代読された。「辺野古への新基地建設は絶対に許さない」「アメリカは核も基地も持って帰れ」の県民世論がかつてなく高まり、米日反動支配層は県民・全国のたたかいで追いつめられており、そのなかで『峠三吉・原爆展物語』沖縄県第二次公演が衝撃的な反響を巻き起こしたことをのべた。沖縄における反米斗争の火ぶたを切った琉大学生による原爆展が50年8・6平和斗争とつながってたたかわれたことを明らかにし、この路線にもとづいた10年余の原爆と戦争展活動、『原爆展物語』公演が、戦争体験者の本当の声をひき出し、沖縄戦体験者と被爆者をつなぎ、日本民族の怒りを発動してきたことを確信を持って報告。この路線を貫いて実践すれば、さらに大きな飛躍を勝ち取ることができると確信するとのべた。 真実にふれ新鮮な感動 会場からも発言 会場から発言した長崎県の小学校教師は、『原爆展物語』に出会い、それまでの平和教育にはなかった「なぜこのようなことが起こったのか」という真実にふれた新鮮な感動を語り、「教員になって20年になるが、平和教育の新たな一歩を踏み出そうと思っている」とのべた。 東広島から参加した男性は、昨年4月の『原爆展物語』公演を機に、広島の平和教育では悲惨さを強調する資料が配付されるが、体験者の話を聞く機会が一度もなかったこと、「劇を通して初めて戦争や原爆の実体験にふれて、初めて日本の歴史に向き合わなければいけないと感じた」と語り、「今後まわりの友だちや子どもたちに伝えていき、もっといい国をつくっていきたい」と語った。 長崎県大村市から参加した高校生は「私は小さいことしかできないが、全国、世界の人たちに原爆の恐ろしさを伝えていきたい」と発言。東広島から参加した被爆者の男性も、東京大空襲でもアメリカが残虐なやり方で市民を焼き殺したことを怒りを持って発言した。 意見発表の後、広島県立大学の学生が集会宣言を堂堂と読み上げ、基調報告、スローガン、集会宣言を採択してデモ行進へと移った。平和大通り、八丁堀交差点などを経て原爆ドームに向かう一時間ほどのデモ行進のなかで、子どもたちは力いっぱい峠三吉の詩の群読をして歩いた。沿道では「人間を返せ!」と唱和する市民の姿も見られた。「他のデモとの違いが明白だった。ここは被爆者の体験から出発して、みんな目指す方向が一致している」など、沿道の市民から大きな支持や反響が寄せられた。 集会にはこの1年間の原爆展運動や『原爆展物語』公演の大きな発展が反映され、50年8・6斗争の路線にもとづく原水禁運動が広島、長崎をはじめとして圧倒的な存在感を持っていることが示された。今後さらに飛躍的に発展する確信を与えている。 |