ウクライナ戦争の即時停戦と交渉による解決を求める声が世界を覆っている。それは、全世界の民衆が共有する感情の発露である。戦争が長期化することで、さらなる苦痛を強いられるのは無辜の老若男女である。だがそのおびただしい犠牲のうえに巨利を得るごく一部の特権層がマスコミを動員して民族的敵愾心をあおっている。この構図は、これまでのいくたびかの戦争でくり返されてきたものだ。戦争に反対する力の源泉は民衆の国境をこえた連帯にこそ求められるだろう。その意味で、日露戦争をめぐる当時の非戦・反戦の主張は、100年有余を経た今に生きて迫るものがある。
与謝野晶子や内村鑑三
日本とロシアが開戦した1904(明治37)年を前後して、マスコミ・言論が主戦論一色で染まるなかで、著名な知識人・文化人が非戦・反戦の主張をくり広げた。
歌人の与謝野晶子は旅順攻略の激戦のさなかにいる弟に寄せて「君死にたまふことなかれ」と歌った。そこには、「親は刃をにぎらせて人を殺せとは教えなかった」「人を殺して死ねよとは育てはしなかった」「旅順が陥落するかどうかは、どうでもよい、死んではならぬ」など、日露戦争に夫や息子をとられた当時の肉親がおしなべて持つ切実な願いが横溢している。
また、天皇はみずから戦争には出て行かないこと、天皇が深い心を持つのであるなら「人を殺し獣の道に死ね」とか「死ぬことが名誉だ」とは少しも思わないだろうと呼びかけた。それはおのずと、「お国のため」という欺まんや「天皇の命令に従い殉じる」ことを美化する風潮に挑むものとなった。
内村鑑三はキリスト者の立場から日露戦争への批判、非戦論を展開したが、それは観念的な理想論ではなく、10年前の日清戦争がもたらした現実を直視するなかで生み出されたものであった。そのことは「名は日露の衝突であれ、実は両国の帝国主義者の衝突である。而してこの衝突の為に最も多く迷惑を感ずる者は平和を追求して歇(やま)ざる両国の良民である」(『万朝報』1903年9月4日)との主張に見てとることができる。彼は帝国主義による戦争を次のようにとらえていた。
戦争でもうかるのは、いわゆる「戦争屋」や、より強大な帝国主義的列強であり、民衆は「軍人保育料」の分担のために経済的に圧迫される。イギリスの『ロンドン・タイムス』紙は自国の国益を計算に入れてこの戦争を煽っているのだ。国内の少しばかりの民主主義や立憲の要素も戦争の非常事態の論理によって蔑(ないがし)ろにされ、不当で危険な国家権力の増強を生み出す。そして、敗戦国も戦勝国も、戦争によって国民の道徳と意識をはなはだしく堕落させてしまう。戦争の利益は強盗の利益である。民は戦争をやめてこそ栄える。
内村鑑三はそのような主張を貫き、ロシアとの開戦論に転じた『万朝報』と決別している。
非戦論説いた『平民新聞』
同じく同紙から離れた社会主義者の幸徳秋水、堺利彦らは『平民新聞』を創刊した。『平民新聞』は1904年2月に「非戦論」を掲載したのを契機に、「平民」の側に立って政府・商業新聞が煽る戦争熱、排外熱をうち破るために独自の論陣を張った。論説では、日本とロシア両政府はおたがいに「平和攪乱」の責任を相手に求めているが、「吾人平民はこれに与(あずか)らざるなり」と、どちらの宣伝にも与しない立場を明確にしていた。そして、「平民はあくまで戦争を認めず、あくまで防止に尽力しなければならない」「すみやかに平和恢復のために運動しなければならない」と訴えた。さらに、ロシアの「同胞平民」も必ず同じ態度方法でこたえること、「英米独仏の平民」も日本におけるこうした平和運動に連帯、援助することへの確信を表明していた。
『平民新聞』(3月13日号)が社説で「露国社会党に与える書」を掲載した。そこで、日露両国政府が帝国的欲望のために開戦したが、「社会主義者の眼中には人種の別なく地域の別なく、国籍の別なし、諸君と我等とは同志なり、兄弟なり、姉妹なり、断じて闘うべきの理あるなし、諸君の敵は日本人にあらず」として、ともに自国政府の軍国主義、国家主義とたたかうよう訴えたことは、国際的に大きな反響を呼び起こした。この社説は欧米の社会党機関紙に公開書簡として英訳され、露国社会党から「日本の同志と一致団結してたたかう」との熱情あふれる返書があった。
戦争仕掛け人とたたかう国際連帯を
日露戦争最中の同年8月、オランダのアムステルダムで開かれた万国社会党(第二インターナショナル)の第6回大会に出席した片山潜が、ロシア代表のプレハーノフと壇上で固い握手を交わし、大きな拍手を浴びた。このエピソードは歴史上画期的なできごととして世界の注目を集め、学校の教科書でも扱われてきた。大会決議は「大会は資本主義と自国政府の戦争により、殺りくされている日本とロシアのプロレタリアに兄弟の挨拶を送る」と宣言した。
プレハーノフは「日本のプロレタリアートに戦争を仕掛けているのはロシア人ではなく、ロシア人の最悪の敵、ロシア政府である」と演説した。片山は「日露戦争は畢竟(ひっきょう)両国における資本家政府の行動に過ぎず、両国の労働社会は至大の損害を受けざるべからず」と発言していた。
交戦国の代表が血のつながった兄弟のように連帯し、自国政府の戦争に協力して互いに憎しみ殺し合うのではなく、平和をたたかいとるため命をかけて戦争仕掛け人とたたかおうと誓い合った。このエピソードは、第一次世界大戦前夜の反戦運動のなかで、ややもすると忘れがちになる教訓として折に触れてとりあげられ、再確認されていくことになったのである。