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広島「原爆と戦争展」閉幕 広島基点に対米従属覆す熱気

 広島「原爆と戦争展」閉幕 広島市南区の広島産業会館で開かれてきた第11回広島「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる長崎の会)は7日、1週間の会期を終えた。67年目の8月6日を頂点に開かれた同展は、瞬時に数十万の市民を殺傷したアメリカによる原爆投下の凄惨な犠牲を思い起こし、そこから始まる戦後社会の現状に対する変革世論が高まるなかで、全被爆市民の協力のもとで、被爆と戦争の真実を伝え、新たな原水爆戦争を阻止する国民的な運動を発信する基点としてとりくまれた。会場には広島市民をはじめ、中国地方、近畿、関東、東北、北海道など全国各地から人人が訪れ、来場者は7日間で1500人に及び、被爆者との熱のこもった交流がおこなわれた。
 
 全国から連携求める声

 期間中には、のべ47人の被爆者たちが会場に常駐して体験を語り、平和公園でのキャラバン隊スタッフを含めてのべ56人の大学生、院生たちが被爆2世や現役労働者とともに設営から受付、炎天下の街頭でのチラシ配布などの運営を献身的に担った。参観者のうち約100人が今後の協力を申し出て新たに賛同者に加わり、賛同・協力者が全体で400人を超えるなど、パネルや被爆者との交流を通じて第2次大戦の真実に触れ、私心なく行動する被爆市民の運動に合流する人人があいついだ。
 原爆記念日が近づくにしたがって参観者の数は増し、市内の被爆者や戦争体験者、遺族をはじめ、親子連れ、会社員、中高生、学生などの市民、また全国から団体や家族連れなどで訪れる人も多く見られ会場で体験を語る被爆者と熱気を帯びた交流の輪が広がった。
 爆心地近くの本川町で被爆したという80代の男性は、「役所勤めだったので、被爆したことはずっと黙ってきたが、この歳になって最後の反撃のつもりで真実を語っていかなければいけないと感じている」と語り、最近になって証言活動や体験記を書き始めたことを明かした。
 「原爆投下に始まった戦後社会は、すべてアメリカの都合で進められてきた結果、デタラメな社会になった。福島原発事故が起こったが、原爆を投下された日本がアメリカから原発を押しつけられ、最初から最後までアメリカの核の呪縛に縛られている。核に始まり核に滅ぶという顛末が私たちの目にも見えるようになった。この状況を変えるためには、被爆地の広島が基点にならなければいけないし、市民一人一人が声を大にして訴えていかなければいけない」と思いをぶつけ、翌日も会場に訪れて参観者に体験や思いを語った。
 会場の近隣に住む80代の男性は、「終戦の年は音戸町の農村にいたが、空襲警報が解除になったので友だち数人と山里で遊んでいたときに、一機だけ残っていたグラマン機が私たちを見つけるなり急降下し、顔が見える距離まで低空で飛行しながら機銃を連射してきた。山に挟まれていたため、命中は免れたが、子どもとわかっているのに遊び感覚で狙い撃ちしてくる米軍のおぞましさは、今も脳裏に刻みついている」と話した。
 「隣の呉大空襲でB29が落とした焼夷弾は、のり状のベタベタした燃料を周辺にまき散らすので水をかけても消えない。後になって、木造家屋に火をつけるだけではなく、中にいる女、子どもまで焼き殺す目的で開発された爆弾だったと知った。この皆殺し兵器はアメリカ国内でも賛否が分かれたというが、結果的に“日本では子どもまで戦争に協力している”という理由で実用化されたという。アメリカは日本人を人間とは思っていない。原爆まで落とされて、日本人はもっと怒らなければいけないし、学生も被爆者も声を上げないとダメだ。日本の平和のためには、日米安保条約の廃棄に向けてみんなが頑張ることしかない」と語気を強めて、翌日の8・6集会への参加を約束した。
 「原爆は戦争終結には必要なかったというテーマで大学の卒論を書いた」と語りかけてきた40代の男性は、「原爆は、戦後のアメリカの覇権拡大のため、また、日本を新兵器の実験場にするために落とされたが、さらに単独で日本を占領することに最大の眼目があったのだと展示を見てわかった。今の日本は、どの政党が政権与党になってもアメリカのいいなり。“日米安保”など後付けのたてまえであって、実際にはアメリカの占領が続いている状態だと思う。それをマスコミや政治家があがめればあがめるほど、植民地であることを実感させられる。気がついたらまた日本は後戻りのできない戦場にされてしまうと思うし、こういう真実を伝える運動をもっと広げないといけない。自分も翻訳業をしているので力になりたい」と語って賛同者に名を連ねた。

 この運動広がれば日本動く 市民が協力申し出 

 展示を見た友人から参観を勧められて安佐南区から来た退職教師の婦人は、「原爆投下による惨状だけでなく、アメリカが原爆投下をおこなった本当の目的と、それに至るまでの戦争の実態、そして、原発も戦後政治のなかでアメリカによるごり押しで導入させられた事実まで、戦争から現代までのつながりがこれほどわかる展示はほかにない。また隣の山口県下関市が攻撃拠点となって関門海峡に数千発の機雷が投下されたことはまったく知らなかったし、その下関市の人工島、岩国米軍基地とつなぐ巨大道路の軍事利用が目論まれていること、広島県を結ぶ道路整備もそれと無関係ではないことを知り、戦後六七年たってもアメリカの支配が終わっていないことがわかり、自分たちが日頃からおかしいと感じていたことが一つにつながった。日本の独立なしにはなにも始まらないし、この運動が若者と一緒に全国に広がっていけば日本は動いていくと思う」と語り、今後の協力を申し出ていった。
 友人とともに訪れた20代の女性は、「祖母が被爆しているが、あまりにも悲惨だからこれまで直接話を聞くことができなかった。でも昨日、祖母が、兄と父が爆心地付近で亡くなったことを話してくれた。なにも知らなかった自分が恥ずかしかったし、これから真剣に受け継いでいきたいと感じた」と語り、友人とともに被爆者から体験を聞いた。これからも被爆者の思いを伝えていくため連携していくことなど交流を深めた。
 また、近隣の病院から医師や看護師、事務員などが交替で参観に訪れたり、会社や学校からの勧めで訪れる親子連れ、「市民なら一度は見ておかなければいけない」と誘いあって来る会社員、県内被爆2世の会など、市内での反響を物語るように集団で訪れ、被爆者と交流し協力を申し出ていく人たちがあいついだ。

 真実知り目が覚めたと衝撃 全国から熱心な参観 

 全国から広島を訪れた人たちも、市内中に貼られたポスターや、平和公園周辺や街頭展示で配布されたチラシを受けとって、市電やタクシーを乗り継いで会場を訪れ、広島の真実の声に強い共感を表していった。
 東京からきた20代の男性は、「このパネルに書かれてあることもすごいが、人人の声を丹念に集め、そこから戦争や戦後社会の真実が見えてくるということにも衝撃を受けた。自分は今までマスコミや学校教育など表面上で流される風潮を信じて社会を見てきたが、昨年の震災や原発事故を契機にして社会の裏側の姿、一部の人間の操作によって真実が隠されていることを知ってから目が覚めたような気がした。この展示会は、真実をありのままに知らせ、被爆者の方方から学生たちまでみんなが“二度と戦争を起こさない”ために一丸となって活動している。自分の生き方を根底から考えさせられる出会いだった」と感動をこめて語った。
 「自分は、テレビから流される膨大なコマーシャルなどによって、気がつかないうちに意識や生活様式まで操作されてきたと思う。でも、それに流されていたら、将来に展望が持てなくなり自殺が後を絶たない。目前の生活だけに関心を奪われていたら、気がついたらまた社会全体が戦争に向かっていくことに気がつかされた。そのことに警鐘を鳴らし、歴史の真実を知らせ、これほど多くの人とかかわりをもって運動をしている人たちがいることに言葉にならないほど衝撃を受けた」とのべ、「この熱気を自分も力にしていきたい」と今後のつながりを求めていった。
 「8月6日にはできるだけ広島に来て、この展示を見ている」という横浜市の40代の婦人は、「再稼働反対の首相官邸前の抗議行動にも毎回出ているが、米軍基地やオスプレイの配備、原発問題も“どちらも一部のものがもうけるためではないか”とみんな怒っている。自民党も悪いが、野田政権はとくにひどすぎる。若い人は仕事がなく、みんな派遣か契約社員。貧困の格差がひどく、最近は若い女の子までがホームレスになっている。その一方で法律が次次に改定され、戦争の準備が進められている。まさに“みんなが貧乏になって戦争になる”というコースだと思う。こういう真実を東京でも知らせてほしい」と訴えて本紙の購読を申し出た。
 東京でフリー編集者をしている20代の婦人は、「祖母が広島で被爆していることもあり、以前、原爆の写真集の編集を手がけたが、そのときに原水禁や原水協という党派に分かれて原水爆禁止の運動がバラバラにされているという事実にぶつかり、嫌になって遠ざかっていた。それでも、本当の市民の声を代表した運動がないのかと探していたが、平和公園での街頭展示を見て、この運動をはじめて知り、“本物の運動がここにあった”と感激している。ぜひ、東京でやるときには協力したい」とのべて連絡先を記していった。
 また、首都圏や大阪、神戸から小学校教師や、保育士などの教育関係者が集団で訪れ、「戦争や原爆について漠然と知っているだけではいけない。一人一人がどのように犠牲になったのか、どんな思いをもって今生きているのか心に刻みつけて帰ろうと思って隅隅まで読ませてもらった。修学旅行で子どもたちにもこのような生の話を聞かせたい」「これまで修学旅行で広島に来ても、体験を聞かせることができなかった。このような会があるならぜひお願いしたい」と今後の連携を求めてくる声があいついだ。

 輪がどんどん広がる事確信 閉 幕 式 

 参観者が続くなか、7日午後3時から、運営を担った被爆者や学生、交流を深めた参観者などが参加して閉幕式がおこなわれた。
 広島の会事務局から全体の概況が報告された後、運営に携わった広島の会の被爆者、学生から感想が語りあわれた。
 連日、会場で被爆体験を語った真木淳治氏は、「今年は新しい会場に変わり、平和公園から遠いという条件であったが、多くの人に協力をいただいて盛会に終わったことをうれしく思う」とのべ、市内の親子連れや中高生、大学生、東京や東北被災地から来た人たちなどさまざまな交流を通じて「広島の被爆の実相と、被爆者の思いを熱心に受け止めてくれる人人の姿勢に強い手応えを感じた」と感慨深くのべた。
 とくに、「原発被災地の福島から複数の方が来られたが、被爆当時の体験を熱心に聞き、“これほどの実態とは知らなかった”といわれ、広島の復興の力に共感し、それに負けずに復興させていく意気込みを高めあった。ともに立ち向かって頑張っていこうという連帯が生まれた。また、はぐるま座の“原爆展物語”公演のかかわりで三次市から被爆2世の会が集団で来られ、今月末に三次市内でともに原爆展を開催することにまで発展した。どんどん輪が広がっていくことが実感され、多くの出会いを大切にして、あらゆる場所でこの運動を広げていくためにこれからも奮斗したい」と力をこめた。
 被爆者の上田満子氏は、「広島市内をはじめ長野、京都などいろいろな地域から来られ、被爆体験やその後の復興に向けた努力などを、真剣に心の内に受け止めてもらえたことがうれしい。これからも運動の発展のために、平和のために皆さんとともに歩んでいきたい」とのべた。
 スタッフとして参加した男子大学生は、7日間の原爆と戦争展、8月4日の『原爆展物語』公演、平和公園での街頭展示、小中高生平和の旅、8・6集会という一連の活動に参加し、「全国各地の人人の体験や思いを知り、子どもたちの真剣さや姿勢の高さにも触れ、同じ志をもつ人たちが一つに集まるのをまのあたりにして自分たちの使命感が増した。なかでも一番印象深いのは、この活動に対する応援や感謝の言葉が多かったことだ。アンケートを見ても日本人だけでなく、アメリカやヨーロッパなど世界中からも認められている運動だと感じた。私たちも戦争体験者や被爆者の担い手になれるようにがんばりたい」とのべ、これからも参加していく決意を元気よくのべた。全国的な世論の高揚と運動の広がりをみせた本展の成果を全員の拍手で確認し、戦争阻止に向けた盤石な運動基盤をさらに広げていくことを誓い合って一週間の会期が締めくくられた。

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