2013年原水爆禁止広島集会(主催・原水爆禁止全国実行委員会)が6日、広島市中区の県民文化センターで開催された。
8月に入り広島市内では、第12回広島「原爆と戦争展」が開幕し、平和公園の原爆の子の像横では学生たちが主体となった街頭「原爆と戦争展」が連日おこなわれ、また広島に学ぶ小中高生平和の旅、劇団はぐるま座『峠三吉・原爆展物語』公演、「原爆と戦争展」運動の全国交流会など多彩なとりくみがおこなわれるとともに、一連の行動への参加を呼びかける宣伝カーが全市を走り回った。安倍政府がTPPや原発再稼働、憲法改悪などアメリカに従って戦争へと暴走するなかで大衆行動を求める機運は充満しており、一連の行動の集約点となった8・6集会は、広島市内から被爆者や大学生が集団で参加したのをはじめ山口県や全国各地からの参加や多数の飛び入り参加も含め約450人となった。集会では、被爆者に学んだ小中高生や学生、青年教師たちが平和運動の新しい担い手として目をみはる成長をとげていることが鮮明に示された。戦後の対米従属構造を欺瞞的に支えてきた野党、「革新勢力」の崩壊があらわになるなかで、1950年8・6を契機に全国に広がった私心のない運動が、平和運動の本流として新たに前面に登場し、日本全国を席巻する巨大な運動となる展望を切り開く画期的な集会となった。
集会参加者は冒頭、68年前の8月6日と9日、アメリカの原爆投下によって亡くなった犠牲者に哀悼の意を込めて1分間の黙祷を捧げた。
続いて原水爆禁止全国実行委員会の川村なおみ氏が基調報告を提案した。川村氏は、アメリカが日本列島を中国、朝鮮などに向けた核攻撃基地にし、原爆の廃虚にする動きを加速させており、安倍政府がこのアメリカにつき従って、憲法を改悪し自衛隊を米軍仕込みの海兵隊の役割を担わせようとしていると指摘。「日米安保条約」と核軍事力によるアメリカの植民地的支配からの脱却にこそ、日本民族の活路があることを明らかにした。
また、先の参院選の結果は、アメリカの支配を欺瞞的に支えてきた野党の解体を明らかにし、そのなかから1950年8・6平和斗争を起点に全国に広がった私心のない壮大な基盤を持った運動が新たに勢いよく発展し、戦後史の大きな転換を促しているとのべた。「原水爆の製造も貯蔵も使用も許すな」「アメリカは核も基地も持って帰れ」「原爆製造工場である原発をすべて廃止せよ」「中国・アジア諸国との敵対ではなく友好関係を強めよ」の運動を全国、世界に発信し、巨大な力に束ねようと訴えた。
続いて劇団はぐるま座の劇団員が峠三吉の詩「八月六日」「その日はいつか」を朗読。会場が厳粛な空気に包まれるなか、広島・長崎・下関の被爆者が発言に立った。
本当の平和の為に斗う 体験伝える被爆者
原爆展を成功させる広島の会の中野秀子氏は、自宅で被爆し、気がつくと玄関の外に飛ばされていたこと、ぼろ切れのような皮膚をたれた人たちがたくさん逃げて来て、水を飲ませるとみな死んでいったことなど、当時の惨状を語った。配給や火葬の仕事にあたっていた父は20日頃から歯茎がとけ、歯が落ち、斑点が出て9月2日に亡くなったことを語り、「広島の会に入って1年、いろんな学校に行き、話をすると、真剣に聞き、“一生懸命頑張ります”と感想をいってくれる。若い人たちが一生懸命頑張って戦争のない国をつくってほしい」と語った。
原爆展を成功させる長崎の会顧問の永田良幸氏は、12歳のときに城山で被爆し、両親・兄弟6人を亡くしたこと、兄と姉はいまだに帰ってこないことを明かしアメリカへの憤りをのべた。前日に平和の旅の子どもたちに被爆体験を語ったことにふれ、「子どもたちは素直でなんでも聞いてくれ、要望もしてくれる。心の出会いがあった」と語り、「戦争がない国をみなさんでつくってほしい」と力を込めて呼びかけた。
下関原爆被害者の会会長の大松妙子氏は、「お国のため」と大臣や官僚、大企業の野心のために国民を欺いて若者を戦場に送り出し、アメリカが広島・長崎を原爆で廃虚にしたことへの深い怒りとともに、廃虚の町から復興してきた経験を語った。そして、安倍総理が福島など被災地の復興は放置したまま、原発再稼働や輸出をしていることを強く批判し、「原爆の悲惨、恐怖は身を以て体験した者しかわからない。だからこそ私たち被爆者は、今伝えておかなければとの思いが強くある」とのべた。
また「私たちは戦後長い間、事実を話すことができなかったが、それを打開してくれたのが長周新聞の福田さんだった。教育においても同じで、教育の破壊をとりもどすために、下関を基点に、日本の未来を願い、子どもたちのためにと先生方が団結し、父母、子どもたち、地域が一丸となって頑張っている」と語り、「全国のみなさんとともに、口先だけの平和でなく、本当の平和のためにたたかっていく」と結んだ。
ここで5日から広島を訪れ、広島・長崎の被爆者に被爆体験を学んできた小中高生平和の旅(総勢90人)の子どもたちが登壇。旅の準備のなかで署名・カンパ活動をとりくんだこと、鉄棒逆上がり全員達成やかけ算九九を頑張ってきたことが、被爆者の体験に学ぶことと結びついてきたことなどを構成詩にして発表。「被爆者、戦争体験者の方方、お父さん、お母さん、地域の方方が私たちに託された思いを真剣に受け止め、思いに学んでいく活動をもっと強めていきます。逆上がりやかけ算九九なども頑張り、自分のことだけでなく、みんなのために役立つ人になって、団結して活動していきます」との元気にみちた言葉に大きな拍手が送られた。
ここで沖縄の退職教師・伊計光義氏から寄せられたメッセージを紹介。伊計氏は、「戦後68年の年月を経ても沖縄は今なおアメリカと日本政府の協定による軍事基地の重圧で激動して苦渋な世相を呈している」とのべ「戦争の悲惨な歴史が忘却の彼方に置かれつつあることを踏まえ、歴史と現実、そして未来へ伝え継ぐビジョンで、国民的運動へ、思想・政党を超えて連携を強化し、固い絆で力強く展開することを信条にせねばならないと思う」と訴えた。
沖縄や教育現場からも 学生も力強く発言
続いて沖縄のパート労働者・野原郁美氏が登壇。普天間基地にオスプレイ12機が新たに配備されるなど、戦争の危機が切迫するなかで、「原爆と戦争展」運動がますます人人の強い関心と信頼を集めていることを報告。職場で原爆展の賛同・カンパが倍加したと報告。そして、「50年8・6平和斗争の路線に基づく地道な運動が原爆投下や沖縄戦を巡る米日反動派の欺瞞のベールを引きはがし、第2次大戦の真実が明らかにされ、人民世論の主流となっている。確信を持って全国各地で原爆展をやり、新たな原水爆戦争を阻止する力をつくっていきたい」と結んだ。
ここで平和公園での街頭「原爆と戦争展」やその宣伝活動などを担ってきた広島の大学生が発言。広島で、原爆展のパネルを見て被爆者から体験を聞いたことにふれ、「今まで学校で習ってきたことが、現実に起こったほんの一部の情報でしかない。見るだけではなく人の口から聞くことにすごく影響力があることを改めて知った。自分ができることはなんなのかを考えていた私にとって、この活動は一つの答えである気がした」とのべた。広島市内での宣伝活動に参加するなかで、市民の力が運動を支えていること、平和公園での街頭展示では海外の人人の思いを知ることができたと報告。「戦争を語る人が減るなか、活動に参加し、できる限り多くの話を聞き、次の世代に受け継ぐ方法を考えることは有効な手だてだと思う」と、被爆者に直接学ぶ重要さを強調した。そして「さらに多くの若者に参加してもらうように、声をかけていくことは、この国の将来を形作るうえで、われわれ全員に課せられた課題だ」と力強くのべた。
続いて宇部市と北九州市の女性教師2人が発言。上宇部小学校で鉄棒逆上がりを学年で全員達成させる経験をした教師は、「クラス以外の子どもに対しては余計な口出しをしてはいけないと思っていた私にとって衝撃だった。今思えば教師も自己中心的で、子どもをバラバラにする教育をしていた」とのべた。上宇部実践をできるだけ多くの教師に広げたいと、同学年の教師たちと試行錯誤しながら毎朝六分間縄跳びや鉄棒実践をとりくむなかで、「日日奇跡をまのあたりにする。集団で一つの目標に向かって頑張ると、全員が何倍、何十倍にも成長する」と報告した。
北九州から参加した教師は、1年前に初めて被爆体験を聞き、「二度と戦争をくり返してほしくない」「自分たちが伝えなければ」とつらい体験を伝える姿に衝撃を受け、それが原爆展や劇団はぐるま座との出会いを通して、さらに鮮明になり、「世の中の中心であるべき大衆が、一部の利益のために犠牲となるような世の中に決して負けてはいけないと感じるようになった」とのべた。そして「“逆上がり全員達成”には“みんなのために頑張る”子どもたちの姿がある。みずから立ち向かい、やり抜く強い気持ちとお互いに支えあう団結心がある。この力で世の中の矛盾に負けない子どもたちを育てる、教育から平和な世の中を立て直すことこそが、今、自分が向かっていくべきことだと思った」とのべ「山口県内、北九州市内で広がっている“人の役に立つ”“みんなのために頑張る”教育実践に確信を持ち全国に広げたい」と発言した。
蘇る50年斗争の原点 劇団はぐるま座報告
最後に劇団はぐるま座の斎藤さやか氏が登壇。6月に沖縄で初めて『動けば雷電の如く』公演をおこなったが、欧米列強がアジアを植民地にし、国の為政者が自分の地位の安泰のために自国を売り渡していくなかで、高杉らが徳川に怒る領民とともに世の中を変えていったことが、現在の米軍基地問題やTPPと重なり、「安倍政府がやっていることは徳川そのもの。当時と共通の課題がある」「高杉晋作やわれわれの祖先が欧米列強に対してどんな態度をとり、どう跳ね返していったのか、その生き様は私たちの生きる源になる」と熱い論議がかわされ、沖縄全県公演への強い意欲が語られていることを報告。
この反響の底には沖縄戦の体験と、1950年8・6平和斗争を起点にして全国の運動と結びついた琉大原爆展をはじめ、本土との交流・連帯を強めて共通の敵とたたかう方向で発展した復帰斗争の経験と誇りがあるとのべた。そしてこの間、沖縄戦の体験や復帰斗争の経験を否定することと合わせて、基地の県外移設や沖縄独立論がはびこり、「アメリカを敵とはいってはいけない」「基地撤去をいってはいけない」といって、敵を曖昧にさせてきた社民勢力をはじめ、沖縄に覆い被さってきた欺瞞とその構図が暴露され、劇団自身の普及活動の転換を通して、大衆の力を発揚し、本当の思いが噴出するとりくみとなったことを明らかにした。「50年8・6斗争のように敵を鮮明にして、大衆的基盤を持った運動への共感と、そこにこそ展望があることが示されている。それは同時に、大衆のなかに入って学んでいく活動なしにはできないことだ」とのべ、「はぐるま座は各層の願いに応えうる運動を全国津津浦浦でやることで貢献したい」と決意を語った。
以上の壇上での発言を受け、平場から長崎の大学生や岡山の女子高生が「自分たちの世代が戦争を二度としないような活動をしていかなければならないと強く感じた」。「自分たちの手で日本を変えないといけない」と発言した。
その後、広島の大学生が集会宣言を読み上げ、基調報告、集会スローガン、集会宣言を拍手をもって採択し、デモ行進へと移った。
県民文化センターから平和大通り、八丁堀交差点をへて原爆ドームへと向かうデモ行進のなかでは、「広島・長崎の新鮮な怒りと戦争の真実を若い世代に、全国、世界に伝えよう!」「アメリカは原爆投下を謝罪せよ!」「アメリカは核も基地も持って帰れ!」などのスローガンとともに、子どもたちが峠三吉の詩「八月六日」や「序」を大きな声で群読。沿道で注目する広島市民や、この日全国から広島を訪れた人人から熱い支持と共感が寄せられた。
デモ隊に手を振りながら、「この原爆の前日に(米軍が)ヘリを落とした。頑張って」と集会宣言を載せたチラシを受け取って支持を寄せる夫婦。「被爆体験を伝えることは若者の責務だ。今、右傾化しているが、地道であっても頑張ってほしい」という商店主。「今から原爆展に行くんですよ。そのデモ隊ですよね」とデモ隊を見送る通行人など、圧倒的な広島市民の支持が寄せられた。また仕事を休んで東京から来たという男性は、「電車に乗っていると他のデモと違って元気がいいから電車をおりてきた」と話し、「いっていることは過激だが、一番まっとうな主張だと思う」と、デモに飛び入りで参加した。
原爆ドームに集結したデモ隊は、最後にシュプレヒコールをおこない、この運動を全国に押し広げる決意を胸に、意気込み高く散会した。