廿日市市役所に併設する「はつかいち美術ギャラリー」で4月30日、第8回廿日市「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会)が開幕した。広島では、来年には被爆から70年を迎えるなかで全県、全市民的な核廃絶への強い願いが高まる一方で、安倍政府がそれに逆行するように武器輸出、原発再稼働、さらに憲法解釈の変更による集団的自衛権の合法化、秘密保護法などアメリカの下請としての戦時国家体制づくりに傾斜していることに激しい怒りが渦巻いている。320万人もの犠牲者を出した第2次大戦と被爆に対する新鮮な怒りを共有し、世代をこえた戦争阻止の力ある運動を発信していくため精力的なとりくみが広範な市民の思いを束ねながら展開されている。
「後世に運動引き継ぐ正念場」
8回目を迎える廿日市市での「原爆と戦争展」は、被爆者、元海軍特攻隊員、医師、自営業者、主婦、大学生、市町内会連合会、市遺族会連合会、市老人クラブ連合会、コミュニティ推進協議会、福祉会など幅広い市民112人が賛同者となって全市的に宣伝がおこなわれた。会場では、広島の会の被爆者が毎日集団で詰めて体験を語り、学生や被爆2世、労働者、主婦なども設営や受付、呼び込みなどを精力的に担っている。
初日の午前10時からは、会員や市民など30人が参加して開幕式がおこなわれた。
初めに主催者を代表して副会長の高橋匡氏があいさつに立ち、「戦争は再びあってはならないというのが体験者共通の願いであり、原爆と戦争展でその思いをぶつけてきた。だが、今の国の動きは集団的自衛権とか、秘密保護法など政府の勝手な行動が目に付き、戦争に近づいていく雰囲気が非常に強くなっている。廿日市の上空には岩国基地から米軍機が飛んでくるが、これを監視することすらいつのまにか罪人にされる時代がくるのではないかと危惧している。戦時中の経験を声を大にして伝え、政府の反省を求めなければならない。体験者が戦争反対の声を上げ、若い人にひき継いでいく義務がある。今正念場に来ている」とのべた。
続いて廿日市市の真野勝弘市長が、「来年は、被爆・終戦から70周年を迎えるが、この経験を後世に伝える義務がある。このとりくみを担う人人も重い任務を背負っている」と前置きし、「8回目を迎えられた熱意に心から敬意を表する。原爆を二度とくり返させないためには広島の経験を次の世代、世界中の人人に語り継ぐことが大切であり、それによって真の平和が実現することを願っている。これからも市民とともに平和推進事業をとり込んでいきたい」とあいさつした。
地元の被爆者を代表して川端義雄、森永ヨシヱの二氏が抱負をのべた。
陸軍病院の衛生兵として被爆した川端氏は、「1発で二十数万の命を奪い、生き残った者に放射能の苦しみを与えてきた、原爆は史上最悪の兵器だ。地元広島の人間として、被爆者として、とにかく原爆はなくすべきであることを声を大にして叫ばなければならない。また、沖縄戦、各地の空爆、戦地の状況を繋げて戦争反対も同じく声を大にして叫ばなければならない。戦後は、米もものもなく、家もなく、苦労をして焼け跡から復興を遂げてきた。私も1週間後に下痢をし、髪が抜け、熱が出た。白血球が半減して寝たきりになり、肺ガンを患ったがこうして92歳まで生かされてきた。本展を通じて戦争の真実の姿をつかんでもらい、戦争阻止の声を大きくしていきたい」と熱を込めて語った。
森永氏は、20歳のとき、爆心地から1・8㌔㍍離れた国鉄購買部で被爆したことを明かし、「最近のニュースを見ると、特定秘密保護法、安保基本法、集団的自衛権を国会の中心法案に位置づけており、今後の政治の先行きが非常に不安だ。自衛隊が国外での武力行使にも派遣される事態にもなりかねない雰囲気がある。戦争が始まる昭和初期は、金融統制や就職難、報道規制など国主導の政策で国民は生活苦にあえいでいたが、今もまた同じような雰囲気を醸し出している。六九年前を思い出し、当時のありのままの姿を知っていただきたい。国民が一致団結し、国をより平和で豊かにしていく必要がある。力をあわせて頑張っていきたい」とのべた。
日中戦争前と情勢酷似 被爆者や戦争体験者
会場には、被爆者や兵役体験者、被爆二世、会社員、主婦、親子連れなどが続続と訪れ、パネルや体験記を時間をかけて参観し、被爆者と熱のこもった交流がおこなわれている。とくに、体験者や被爆二世が家族を連れて訪れたり、親からひき継いだ遺品を提供したり「じっとしておれない」と協力者として運動への参加を申し出ていく参観者があいついでいる。
「ここまでアメリカにやられっぱなしで腹が立って仕方がない…」と涙をぬぐいながら語り始めた70代の婦人は、TPP協定でアメリカの要求を強引に押しつけられている日本の政情に歯がゆさをにじませた。
自身も2歳半のときに爆心地から2㌔未満の土手町で被爆し、自分を抱えていた兄はヤケドを負い、両親も被爆による後遺症に苦しんだという。「従兄は海軍に召集され、雷電という戦闘機に乗ってニューギニア島のポートモレスビーで撃墜されている。幼かったので自分の記憶はないが、もっと両親から被爆当時の話を聞いておけばよかったと悔やまれる。戦争を始めた指導者が生き延びて、アジアからは“戦争加害者”と責められ続け、原爆を落とされた側がいつまでもアメリカに属国のように扱われることが腹が立って仕方がない。国民の口をふさぎ、反対できないように縛りあげて戦地に送った政治の責任はなぜ問われないのか」と激しく思いを語り、「被爆者として役に立つことがあれば協力したい」と賛同者になった。
陸軍特別幹部候補生として従軍した八七歳の男性は、広島の食糧事務所に所属していた父親が朝鮮総督府勤務となって家族で大陸に渡り、昭和20年に17歳で陸軍に志願して内地に戻ってきたことを明かし、「2月に興安丸で朝鮮から下関に行き、山陽本線沿いに東京を目指したが、“勝っている”という情報とは裏腹に日本各地の都市が焼け野原になっていることを初めて目の当たりにした。列車にも米機グラマンが急旋回して機銃掃射を浴びせ、東京では朝から晩まで空爆で動くものは何でも狙われ、身近にいた3人の少年兵が狙い撃ちされて内臓が飛び散ったのも見た。その後は、火薬をつけた竹竿を持ってふんどし一枚で敵に体当たりする訓練をやらされていた。兵隊は戦死すると二階級昇進させられて、親元に遺髪が届けられたが、敗戦間際には消耗品同然の扱いだった」と語った。
また、「戦時中、私たちに“捕虜になるくらいなら舌をかみ切って自決しろ”と指導した張本人が敗戦後自らなんの責任も取らず、アメリカに国を明け渡してちやほやされ、TPPでもアメリカの要求丸呑みだ。秘密保護法に限らず、戦争になればどんな法律も政府の都合のいいように拡大解釈される。個人の自由などは国家の危機の前には無力で、否が応でも戦争に動員される。今の情勢も日中戦争前の盧溝橋事件のころの雰囲気とよく似てきたが、今度の戦争では日本はアメリカ軍の矢面に立たされることになる。アメリカは戦争から70年が経って戦争体験者が少なくなったら戦争に動員しやすくなると見て憲法改定をやらせており、植民地政策が本格化するのはむしろ今からだ。若い人たちがそのことに気がついてほしい」と強い口調で語り、協力者となった。
終戦直後、父親が原爆資料館の設立にかかわったという被爆婦人は、「山中高等女学校2年生で千田町で被爆したが、父が大学教授をしていた関係でたくさんの大学生や教員たちが亡くなったことも見てきた。今また戦争の方向に政治が向かっていることに危機感を感じている」と広島の会の被爆者と語りあい、「自分の体験も伝えていきたい」と意欲を語って連絡先を交換した。
賛同協力や資料提供も行動的な現役世代
被爆二世の世代が連れ立って参観したり、現役世代の意欲的な参観も目立っている。
2人連れで参観した60代の婦人は「被爆した母に体験を語ることを勧めるとうめき声を上げ、数日間、熱を出すほど苦しむ姿を見て驚き、自分がなにも知らないできたことを反省した。今の日本の情勢を見ると、戦後ではなく、新しい戦前のような気がして焦りさえ感じる。自分がなにもしないでいいのかという気持ちで勉強を始めている」と明かした。
また、学徒動員された市役所付近で唯一生き残った従兄が、両親、祖母を原爆で亡くし、13歳で2人の弟妹を親代わりになって育てたことを最近知ったこと、「その従兄も原爆後遺症で毎年大手術をくり返して身体はもうボロボロになっても1年1年生きるたたかいをしている。私がその思いを受け継いで原爆の悲惨さを伝えていきたい」とのべた。
同伴した同い年の婦人も「父方の叔父が原爆慰霊碑のある中島本町に家があり、母の姉はあの日に建物疎開作業に行ったまま帰ってこない。平和公園に初めて行ったとき、母は死没者名簿が納められた石棺にすがりついて慟哭していた。戦地にも行かず、被害に遭わない人をはじめ、大多数の国民が取り返しのつかない犠牲を強いられるのが戦争だと思う。次世代として役に立ちたい」と、2人で賛同協力を申し出た。
30代の女性会社員は、「毎回見させてもらっているが、来るたびに新しいパネルが加わって新鮮な感覚を受ける。体験のない自分たちの世代は、どういう状況が危険なのかを判断する材料がなく、“国にとっていいことだ”という政府の説明やマスコミにつくられた雰囲気だけで盛り上がっていく傾向がある。実際はそうやって戦争になっていったことを教えられ、若い世代が真剣に過去の歴史に向かいあうべきだ」と共感を示した。
また、被爆者から体験を聞いていく親子連れや、中国戦線に行った父親が書き残した手記を持参して「展示に役立ててほしい」と提供する父親など、現役世代の積極的な参観が目立っている。
廿日市「原爆と戦争展」は、4日(日)までおこなわれ、会期中は被爆者が常時、会場に詰め体験を語ることにしている。
長崎、沖縄 山口県内も各地で取組み進む
「原爆と戦争展」は今年の8月6日の原爆記念日に向けて各地で精力的にとりくまれている。
原爆展を成功させる広島の会(重力敬三会長)は、5月12~16日まで広島修道大学(広島市安佐南区)の図書館展示ギャラリー、6月4~17日まで広島大学(東広島市)の中央図書館で学生とともに開催する準備を進めている。全国からの修学旅行生や市内の小中学校での被爆体験の証言活動も本格化する。
長崎でも、6月18~23日まで長崎市民会館・展示ホールで第10回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、広島の会、下関原爆被害者の会)が全市的なとりくみとして開催される。
山口県内では、岩国市民会館で5月22~25日まで第15回岩国「原爆と戦争展」(主催/岩国原爆展を成功させる会)が開催されるのをはじめ、下関市内では垢田コミュニティセンター(5月11日)、垢田公会堂(5月18日)、そのほか長府や彦島で開催予定。防府市では7月に、萩市では6月中旬に萩市民会館、宇部市でも上宇部校区で準備されている。
全国では、沖縄県では5月に宜野座公民館、6月に那覇市てんぶす館。愛知県では、5月に名古屋西区の円頓寺地区、6月に豊橋市で開催。富山県では立山町、八尾町文化祭でおこなわれる予定。大阪では6月6~8日まで大正区で開催され、京都では7月25~27日まで京都市内のアスニー山科でおこなわれる。岡山県では5月13~15日まで岡山大学、5月31日~6月1日まで金光町で開かれる。
安倍政府による露骨な対米従属と政治体制づくりが進行するなかで、各地で被爆者や戦争体験者の強烈な怒りとともに若い世代の行動意欲がかつてなく高まっている。「原爆と戦争展」は深刻な戦争体験と現代とを重ねて戦争阻止の力をつくる基点としてとりくまれている。その力を8・6広島へ合流し、独立と平和を求める全国的な運動の展望を切り開く巨大な運動に束ねていくことが期待されている。