長崎市中央公民館で8日、今月18日から開催される第10回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会)の第2回主催者会議が開かれた。会議には被爆者や戦争体験者、主婦、会社員などの市民が参加し、10日後に迫った同展の成功に向け、この間のとりくみの状況や反響、さらに会期中の運営などについて役割が確認された。
10回目迎え運動の広がり確信
初めに長崎の会の被爆者・山村知史氏が「いよいよ開幕が迫ってきて市内での宣伝も行き届いてきた。原爆と戦争展の成功のために意見を出しあいたい」とあいさつし、事務局からとりくみ状況について報告された。
5月11日に第1回主催者会議を開いて以降、市内ではポスター掲示やチラシ配布などの宣伝活動がとりくまれ、8日までに原爆と戦争展への賛同・協力者は約150人に及び、被爆者、被爆2世、自治会長、商店主、医者、寺院、大学教員、退職教員、会社員、さるくガイドなど幅広い人人によって市民会館周辺の浜町、中通り、新大工などの中心商店街から市郊外の滑石、長与町に至るまで宣伝が広がったことを報告。
ポスターは約1600枚が掲示され、チラシ約六万枚が市民の手へ届けられ、市内の40の小学校、25の中学校、16の高校では全校生徒にチラシが配布されていることも明かされた。
毎週土日の宣伝行動には、下関原爆展事務局のスタッフや長崎市内の大学生も参加。市民からは快くポスターが掲示され、自治会長が自らチラシを預かって各戸配布の協力に応じるなど積極的な宣伝協力が寄せられており、被爆から70年を迎えるなかで若い世代に運動を受け継いでいくことの必要性や、政府の憲法解釈一つで320万人もの犠牲を出した戦争の反省から定められた平和主義の原則を覆して、アメリカ軍と戦斗行為をともにしていく集団的自衛権の容認を打ち出していることへの危惧は強く、「一旦、戦斗で犠牲者が出て戦時体制になれば拡大解釈でどこまでも突き進んでいく」「今度の戦争は核戦争だ。政治家は逃げられると思っているのだろうが、長崎の現実を教えなければいけない」という切迫した思いが語られていることが報告された。
また、大学でも卒業してもまともな就職口がなく、「貧乏になって戦争になっていった」という戦前と酷似してきた現代の世相について語りあわれたり、参観を訴えに回った小中学校でも「最近、子どもの自殺があいついでいる。厳しい逆境に打ち勝ってみんなで力を合わせて生きていく根性を身につけさせたい」「インターネットや携帯などにはまって、まともな人間関係を作れず、個個バラバラになっている。人の苦しみや痛みを知り、それを乗り越えていく強さを学ばせたい」と子どもへ参観を促す動きにつながっていることが明かされた。
論議では、市内のいたるところにポスターが貼られて雰囲気が盛り上がっていることが喜ばれ、これまで語ることのできなかった被爆体験を語り継ぐ運動として全市的に定着してきたことに確信が語られた。
80代の婦人被爆者は、「子どもたちの真剣さが目に見えて変わっている。子どもに被爆体験を話していると、先生がそばに来て“授業の時とは顔つきが違う。このくらい学校の勉強でも集中してくれれば…”と驚いていた」とのべた。また、先日、長崎に来た横浜の中学生が案内する被爆者に「死に損ない」などの暴言を吐いたことを商業マスコミが大大的に報じていることに触れ、「ほんの一部の子どもの言動で若い人すべてが同じように受け止められるのは残念。でも戦争や原爆について他人事のようにしか教えられていない学校教育の現状があらわれているとも思う。私たちも戦後は、被爆者というだけで敬遠され、語るに語れない状況だったが、そうやって忘れられてしまえばまた同じ目に遭うときがくる。そうさせないために語り継いでいる思いを知ってほしい」と話した。
別の婦人被爆者も「みんな体験していても、これまでは日常生活で被爆体験を語ることはなかった。でも、この原爆展が始まってから、語り継ぐことの大切さを実感するようになった。こういう場があるからこそお互いが人生を語りあって、風化させない力になる。ポスターを持って回るとみんな被爆の体験を語ったり、知らない人も“頑張っているね”と応援してくれるまでになった」と明かした。
米国美化の欺瞞引剥し意欲強める被爆者
また、原爆の光で一瞬にして近所の女の子の頭が燃えて、直後の爆風で家ごと吹き飛ばされたことや、浦上地区一帯の川には川岸の高さまで遺体が積み重なり、電車の運転手や乗員もそのままの姿勢で黒焦げになっていた被爆後の状況が語られた。
「政府は国民保護計画で雨ガッパやマスクをして逃げろといっているが冗談ではない。気がついたときには放射線で細胞をやられ、丸焼けにならなくてもその後バタバタと死んでいく。長崎では当時20万人の人口のうち3分の2が直爆や原爆症で命を奪われた」(男性被爆者)、「長崎県出身の久間元防衛大臣が“原爆投下はしょうがない”と発言したが、そのような教育が子どもをおかしくしている。私は久間大臣と同じ島原の出身だが、あの発言で地元の支援者が怒って大臣から引きずり下ろした」(婦人被爆者)など、「国民を守る」と強調しながら原爆投下の責任すら問わない政府の矛盾が指摘された。
三菱兵器幸町工場で被爆した男性は、「長崎では広島と違って戦後は被爆遺構が次次に壊された。浦上天主堂は当時の田川市長が訪米してアメリカの直接の指図で取り壊し、三菱重工も甚大な被害を受けた三菱製鋼所などの残骸をすべて撤去した。平和公園にきれいな女神像が増える一方で、数万体の遺骨が放置されたまま慰霊碑すらなく眠っている。こんな状態で被爆の実相が後世に伝わるとは思えない。原爆展では知られていない実際の資料を見せて、これからのこととして考えるようなとりくみにしないといけない」と強調した。
また、「今が戦前と同じになっている。戦犯岸信介の孫が大手を振り、国会はまるで大政翼賛会で自浄機能がなくなり、集団的自衛権でアメリカを守るためのナンセンスな法改定をやる。あれだけ原爆で殺されながら“アメリカが守ってくれる”と真顔でいい、また国民を苦しめている。税金は上げ、年金は削り、秘密保護法などを作って性懲りもなくファッショ化している。そんな総理大臣が八月九日に長崎に来ること自体許せない。アメリカの罪を問えない総理に慰霊の気持ちも、国民を守る意志もありえない」と怒りを込めて語った。
商店主の婦人被爆者は、眼鏡橋のかかる中島川周辺でもマンション建設の基礎工事をすると今でも遺骨が何体も出てくることを明かし、「まともな供養もせずに戦後70年もきていることにみんな心を痛めている。直接の体験者が減るなかで、真実を隠すのではなく受け継いでいく岐路にある」と語った。
海軍出身者の男性も、終戦直前、鹿児島で桜島の麓で上陸してくる敵艦船に魚雷を抱えて体当たりする訓練をしていたことを語り、「長崎では女神像のイメージで美化され、被爆の真実が誤解されている。なぜあのような悲惨な負け戦をやったのか。これから50年、100年先まで語り継ぐ運動にしていきたい」とのべた。
最後に設営から会期中の運営に至る任務を市民の力を合わせてやり抜いていくことや、若い世代にも運動への参加を働きかけていくことが確認された。
10日後に迫った開幕に向けてさらに宣伝を広めていくことで一致し散会した。