長崎市民会館展示ホールで開催されてきた長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会他)は23日、6日間で約1000人の参観者を集めて閉幕した。参観者は日増しに増え続け、誘いあって訪れる年配者や、戦地体験者、戦争遺族、被爆二世、社会人、商店主、自治会役員、大学教員、学生、高校生、家族連れなど現役世代も意欲的に参観し、被爆者から体験を学んだり、パネルを見ながら現在の情勢について真剣な論議が広がった。被爆体験記や各種資料の提供をはじめ、運動への参加協力を申し出る市民もあいつぎ、集団的自衛権の行使をはじめとする段階を画した戦時体制づくりが進むなかで凄惨な被爆と戦争体験に根ざして戦争阻止を願う広範な市民の行動基点となって活発な交流がくり広げられた。
とくに、戦争体験世代の来場が連日絶えることなく、自らの体験と現在の安倍政府の動きに対する切迫した思いが溢れるように語られた。
運動協力申し出る市民相次ぐ
陸軍特別幹部候補生だった80代の男性は、昭和20年頃には知覧飛行場が米軍から攻撃されて使えなくなって熊本県の健軍飛行場が前線基地になり、そこから毎日のように特攻隊が沖縄などへ出撃していたことを語った。「分隊長も特攻隊として飛んでいって死んだ。戦艦大和が沈んだ天一号作戦にも参加していたが、アメリカが無線で“鹿児島を攻撃する”“熊本を攻撃する”と放送しており、その通りに日本は攻撃されるがままで“これは負ける”と思った。日本にはすでに迎え撃つ飛行機がなかった」と話した。
「5月に帰った熊本の菊池でも攻撃を受けた。戦友や面会に来ていた人たちもみんなやられた。衛生室に死体を運び込むと、部屋は血でじゃぶじゃぶになっていた。戦友たちの死体を前に“戦争は二度とするものではない”と心に誓った。玉音放送のときには隊長などは泣いていたが、私は“これでみんな死ぬことはなくなった。もう死ななくていい”と思った」と話した。
長崎にいた父親の妹は被爆し、髪の毛はずる剥け、棺に移すときには腹から膿が出てくるほど悲惨な姿で亡くなった。またインパール作戦に参加した叔父の小隊では二人しか生き残らなかったという。「小隊長をつとめた叔父は突撃すれば必ずやられるので“突撃するな、隠れろ”と命令していたが、食べ物はなく、餓死と病死がほとんどだった。米軍が上空から連合軍に向けてパラシュートで食料を落とすのを待ち構えて奪ったり、木の葉の水を飲んだり、ネズミやミミズも食べたと聞いた」と話した。
「道の両脇には死体がごろごろ転がるなか、叔父たちが命からがら本部に帰ると、本部はもぬけの殻で誰もいなかった。お偉方はみんな、危なくなると兵隊を見捨てて自分たちだけ逃げていたのだ。満州でも関東軍は敗戦の前に一般人を置いて撤退した。上の者は号令だけかけて自分は絶対に安全な場所にいる。今の内閣を見ていると学生や子どもたちが戦争に叩き込まれ、二の舞いになるのではないか心配だ。安倍は日本を潰す。東条内閣とまったく一緒だ。絶対に戦争はしてはいけない、ということを伝えていってほしい」とくり返し話して賛同者となった。
集団で訪れた年配婦人たちも、目頭をぬぐいながら戦時中のパネルに見入り、「また戦争に向かっている」「石原環境大臣が福島の被災者に“最後は金でしょ”といっていたが、あれが今の政治家の本音だ。みんな国民の税金を自分の金と思っている。安倍は“国民を守る”といっているが、それはほんの一部の国民のことで大多数のことは考えていない」「憲法改定というが、アメリカへの報復攻撃を日本が受けるとすれば中国と近い長崎は大変なことになる」と口口に語りあって賛同者になり、自らの体験を記した本を提供した。
息子と孫の三世代で訪れた八八歳の男性は、当時、爆心地から50㍍の山里町(現在の平和町)に自宅があり、両親が家もろとも直爆を受けて即死したことを明かした。「自分は19歳で予科練に志願し、2等飛行兵曹として鹿児島から厚木、山形へと移動しているときに原爆投下を知った。3日3晩列車に乗って長崎を目指したが、広島駅で廃虚となった市街地を見て“もうダメだな…”と感じた」という。
案の定、自宅は跡形もなく、膝の高さまで灰やガレキが堆積していたため何日もかけて掘り返したが、原爆投下から10日も経っているのに土が熱くて触れないほどだったという。母親は白骨になっており、父親は見つからず、近くで仰向けになって空をつかむように両手を突き上げた格好で炭になっている遺体の一部を持って帰った。
「茂里町では電車の中につり革を握ったままの黒焦げの死体が残っていたり、浦上川はまだ死体がゴロゴロしていたが片付ける人もいなかった。駅から北は立ち入り禁止措置がとられ、アメリカがブルドーザーで整地していたからだ。その後も食うや食わずの生活をし、一番苦しい時期をみんな苦労して立ち上がって長崎を復興させた。戦後、日本はアメリカの傘下に入ったが、いざというときアメリカは日本を守らないし、アジアでの戦争で集団的自衛権は成り立たない。中国や韓国は、戦争の恨みは相当にもっているから対立を深めるべきではない。長崎は昔から日中友好で交流してきたが、国は戦争にならないよう努力するべきだ」と語った。
一緒に来た40代の父親も、「被爆二世として知るべきと思って家族三世代で来た。建設業者なので東北被災地にも仮設住宅を建てる仕事に行ったが、津波被災地は被爆写真で見た光景と重なって胸が震えた。政府の発表とは裏腹に3年経ってもまったく復興が進んでいない。仮設も大手ゼネコン、ハウジングメーカーだけが儲かる仕組みになっていて、震災は金儲けに利用されている。戦争も同じで、アメリカは世界中で儲けようとして戦争をくり返している。戦争をさせないために自分たちが行動しないといけない」と語って今後の協力を申し出た。
小学校6年生のときに朝鮮から引き揚げた男性は「寒い12月だった。帰ってきた長崎では親戚もみんな死んで家もなく、後から送るといわれていた家財道具なども来なかった。焼け跡のなかから消し炭を拾って暖をとったが、後から原爆で死んだ人を積み上げて焼いた場所だとわかった。七輪に入れて燃やしていると燐の青い炎がぽっぽと出た」と話した。
そして「戦後70年たってまた戦争になろうとしている。戦争をすることで儲かる者がいるからだ。昔は労働運動が盛んで安保斗争でも労働組合が先頭に立って平和のためにたたかった。しかし、今は全部企業の御用組合になっている。私がいた三菱造船の組合も上の人間は会社から生活の安泰、昇格を保障されて裏切っていった。社民党も共産党も口では労働者の味方のようなことをいうが、実際は自分たちも権力にありつきたいだけだから相手にされない。ベースアップだとか騒いでいるが、そんなのは大企業の正社員だけだ。自分たちの給料を上げる前に、大量の非正規雇用の労働者のためにたたかうべきだ」と胸の内を語った。
京大原爆展の経験 朝鮮戦争最中の学生たちの斗い 資料を提供
米軍占領下の1950年代に京都大学での原爆展運動に関わった70代の男性が訪れ、朝鮮戦争で3発目の原爆が投下されようとした一触即発のなかで当時の学生たちが使命感に燃えて全国各地で原爆展を展開した歴史を語り、その業績を掘り起こしたニュース資料を提供した。資料には、原爆に対する占領軍の報道管制(プレスコード)が敷かれていた昭和31年、京大同学会が京都丸物百貨店をはじめ、大阪、兵庫などの関西一円で「総合原爆展」を開催し、それが東京各地、北海道、静岡など各地に広がり、大きな反響を集めていたことが克明に記されていた。
「原水禁運動はビキニ水爆実験以後に杉並の主婦の署名運動から始まったといわれるが、それより前に学生たちは米軍占領下でありながら、朝鮮で米軍がまた原爆を使うという緊迫した情勢のなかで使命感に燃えて原爆展運動をやった。これまで銃を担いで戦争に行かせていた学校では急に民主主義を唱え始めたが、日本全体を依然として旧体制が支配していることに激しい怒りをもって活動し、それは全国的に大きなうねりをつくった。米軍や警察が付け狙っていたが、保守層の多い田舎に出かけても大反響だった。今のように被爆者援護や一部の政党だけの狭い運動ではなく、全国民規模の運動だった」と強調した。
「原爆展運動にかかわった友人のなかには職場でパージを受けた人や、今では大病院の院長や国立の医療センターの重役になった人など立場は様様だが当時の経験を掘り起こして歴史に残すことの重大性では一致し、今でも結束がある。戦争阻止は一国だけの問題では解決せず、国際的な規模を持った平和運動として展開する必要がある。第一次大戦はサラエボの皇太子が一発の銃弾で撃たれたことが発端となり、日中戦争も盧溝橋での一発の銃声で始まった。尖閣諸島でも同じ事がくり返されようとしている。この原爆と戦争展は世界的に通用する内容だし、日本各地だけでなく、アジア各国でも開催すれば大反響を呼ぶのではないか」と期待をのべた。
その場に居合わせた中国人の大学教員は、「原爆もだが、開戦から戦地、空襲に至る戦争の全過程と、この戦争反対運動をどのように発信していくかが一つにつながったパネルがすばらしい。これは学生にも見せたい」と語った。
「米軍の中国長沙での無差別空襲も初めて知ったが、アメリカは原爆投下も含めて狡猾に自分の責任を日本になすりつけていることがわかる。そうやって日本と中国を争わせ、安倍政府をその罠の中で泳がせてアジア支配をコントロールしている。数年前のテレビ番組で、原爆投下に随伴した米軍高官の一人が被爆者から“原爆で亡くなった人人に一言謝罪はないか”と問われ、ノーウェイ!(冗談じゃない)と応えていたことに衝撃を受けた。核廃絶といいながら自国の核使用を肯定するという米国の傲慢さだ。中国でも原爆については知られておらず、長崎に来る中国人になにが一番印象に残ったかを調査したところ原爆がダントツで最多だった。私も3・11の福島原発事故から被爆地で在職する者として原爆投下について研究を始めた。この原爆展を全国に伝えてほしいし、自分もできるかぎり協力したい」と意欲的に協力を申し出た。
また、研究のため東京から来た医療系大学の女性研究者は、東京空襲でも米軍は赤十字マークのある病院も攻撃しながら皇居やカトリック系の病院は残して戦後の進駐に利用していたことを語り、「広島でも長崎でも三菱の主力工場が無傷で、日本の財閥とアメリカが戦後の提携をにらんで話がついていたことが納得できた。被爆当時、長崎では大村海軍病院の医療部隊が外国人捕虜も看護しているが、米軍の日本に対する扱いはひどいものだった。今秘密保護法がつくられたが、戦時中の昭和20年、愛知県から三重県にかけて三河地震による数千人の津波死亡者が出ていたが軍事秘密として隠されて組織的な救援はされず、米軍だけがすべて航空写真で撮影して把握していたことが戦後になってわかった。これから同じような情報統制が始まるのではないか。この展示物は非常に有益な内容で、長崎からこのような運動が始まっているのが心強い」と語り、研究資料としてパネル冊子を購入していった。
また、ゼミのグループで参観する大学生や高校生、留学生、親子連れをはじめ、親世代、会社員、商店主など現役世代も多く訪れ、被爆者の体験談を聞き、「これからはあなたたち若い人が戦場に連れて行かれる。二度と戦争をくり返さないために行動してほしい」との切迫した思いを受け止めて行動意欲を高め、会期中だけで約100人が運動への賛同協力者に加わった。
約1時間、同級生3人で婦人被爆者から体験を聞いた男子高校生は、「小学校の時に全校集会などで体験を聞くことはあったが、こうして身近に体験を聞くことができたのは貴重だった。思い出したくない体験を伝えてくれる被爆者の方の思いに応えて、集団的自衛権などの戦争の動きには被爆地の長崎が率先して反対していくべきだと思う」、「体験者の言葉は説得力が違う。自分が住んでいる町の歴史についてこれからも学んでいきたい」と、真剣に感想を返していた。
被爆三世の男子高校生は、「戦争では当初は一時的な勝利をしていても国民生活はますます苦しくなったと書いてあった。それなら何のための戦争なのかと思うし、戦争で社会がよくなるということはない。今政治家が国民投票もせずに憲法を変えようとしているのはおかしいと思う。普段目にしている商店街のシャッター通りも体験者は戦前と同じと感じていることがわかった。体験者に学ぶことの大切さを感じた」と真剣な面持ちで話していた。
60代の女性は「アメリカは原爆投下は“戦争の終結を早めるためだった”といっていまだに謝罪もしていないが、結局はソ連にアメリカの力を見せつけて日本を占領するためだ。そのために、わざわざ種類の違う二発の原爆を投げつけた。核実験のためには自国の国民をも犠牲にするのに、日本人に謝罪の気持ちなんてあるはずがない」と腹立たしさをぶつけた。
23日の午後5時には、参観者が続くなかで閉幕式がおこなわれた。10回目を迎えた原爆と戦争展は、全市民的な協力の下で約1000名が参観し、新たな戦争への動きが強まる日本の現状に対する各世代の強い問題意識と行動意欲が結びつき、被爆地長崎の意志を示し、戦争阻止の全市的な運動をつくる基点となったと報告された。
長崎の会の河邊聖子副会長が「いつもこの原爆展が終わるときにはもったいない惜しい気持ちになる。関係者の努力に感謝したい。この原爆展を成功させるためには一人一人の力が必要だ。こんな立派な展示だから、これからも多くの人人に見ていただけるように今後もよろしくお願いしたい」と挨拶。
海軍兵士だった木場富三氏は、「これだけの資料は全国に広げなくてはいけない。自分たちは知っているが、これから5年、10年と経てば、知っている者はいなくなり伝えられなくなる。それではいけない。このまま消えて伝えられなくなってもいいのか。全国に広げて残すようにしなければいけない。今の政府はまた戦争をしそうな気配だ。みんなでこの原爆展を広げていこう」と力強く訴えた。
宣伝活動や受付など積極的にスタッフを担った男子大学生は「会場でいろんな体験を聞くことができた。これから自分たちの世代が戦争に巻き込まれたら真っ先に連れて行かれる。そうならないためにも、この展示を西日本だけでなく、東日本、全国的に広めていきたい」と力強く今後の抱負を語った。
最後に、この原爆と戦争展の成果を全市内に伝え、8月6日に広島でおこなわれる「原水爆禁止全国広島集会」に合流し、戦争反対、平和への思いを集め、全国、全世界に発信していくことが確認され大きな拍手で6日間の会期は閉じられた。