2014年原水爆禁止広島集会(主催・原水爆禁止全国実行委員会)が6日、広島市中区の県民文化センターで開催された。
戦後69年を迎えた被爆地広島では、先月30日から第13回広島「原爆と戦争展」が開かれ、平和公園では広島の大学生を中心とした原爆と戦争展の街頭展示、4日には劇団はぐるま座の『峠三吉・原爆展物語』公演がとりくまれてきた。さらに市内では8・6広島集会への参加を呼びかける宣伝カーが回り、全広島市民に向けて訴えを発してきた。集大成となった集会には全国各地から450人が結集した。安倍政府が、秘密保護法の制定や原発再稼働、TPP、集団的自衛権の行使容認の閣議決定など戦争政治をごり押ししているなかで、戦争を阻止しようと願う大衆世論は日本列島の津々浦々に充満していること、その力を束ねて運動にしていくなら押しとどめることができることを確信させるものとなった。平和運動の本流をさらに全国へ広げ、日本社会の未来を切り開いていく、気迫と決意のみなぎった集会となった。
集会では初めに参加者全員で、原爆投下によって亡くなった犠牲者に黙祷を捧げた。続いて原水爆禁止全国実行委員会の川村なおみ氏が集会の基調報告をおこなった。
基調報告では、69年前の1945年8月6日、アメリカの落とした一発の原子爆弾によって、広島の十数万人を一瞬にして焼き殺し、3日後の長崎も同じであった。この原爆投下について未だにアメリカは謝罪せず「日本人が悪かった」からだと居直り、他国の核保有については騒ぐ一方で、アメリカだけは大量の核弾頭を保有して核開発を繰り返し、世界の至るところで戦争を引き起こしていると指摘。このアメリカが国際的な孤立と深刻な財政危機のなかで、米軍は後方に下がらせ、日本をアメリカ本土を守るための盾にしようとするものであり、「沖縄の負担軽減」のペテンで岩国を中心に広島湾岸を核攻撃の巨大基地としていること、安倍政府が国民の圧倒的な反対世論を押し切って集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、アメリカのために日本の若者に「死んでこい」というものであることを明らかにした。
そして、原爆反対の火ぶたを切った1950年8・6広島斗争の原点にかえり、この十数年来とりくんできた「原爆と戦争展」の運動は、被爆者の新鮮な怒りを共有し、若い世代がその思いを受け継ぐ運動として発展してきたこと、運動の到達と確信にたって、全国で沸き立つ戦争阻止の世論を束ね、日本の平和と独立を実現する巨大な運動に発展させようと呼びかけた。
劇団はぐるま座より、原爆詩人・峠三吉の「その日はいつか」「題のないうた」の朗読がおこなわれたあと、広島・長崎の被爆者をはじめ、原爆と戦争展を担ってきた各界各層からの発言がおこなわれた。
体験者の気迫 平和犯す者とたたかう
広島の被爆者である林信子氏は、赤十字病院の看護婦として病院に勤務していたときに被爆した体験を語った。小学4年のときに日中戦争が始まり、何もわからないまま「日本は正しい戦争をしているんだ」と疑うことなく信じて育ってきたこと、お国のために何ができるだろうかと考え、女学校4年のときに赤十字病院に甲種救護看護生徒として務めた。8月6日、前日の5日から当直で、朝は残務整理に追われて器具を洗う部屋にいたときに何ともいえない光に襲われ、爆風によって頭上に器具が落ちてきて意識を失った。気がついて、患者が気になって階段を駆け上がり、動ける患者に手を借りながら地下に避難したが、電気も水もなかったこと、木造だった寮が崩れ、同僚が下敷きになってみんなで引っ張り出したこと、同じクラスの友達は顔がななめに裂け亡くなっていたことを明かした。病院のロビーには負傷した人人がつめかけ、「水を下さい」と足にしがみついてくるのを看病したが、翌朝にはみな亡くなり地獄のような光景だったと話した。
広島の会に参加し、語り継ぐ活動にかかわるなかで、「次の代、また次の代へとみなさんが受け継いでいただくことがうれしい。集団的自衛権という言葉をニュースで聞くが、また日本が戦争をするようなことがあったり殺しあうようなことがあっては大変だ。これからもみなさんが平和のために受け継いでくれることを楽しみにし、頼りにしている」と述べた。
長崎の被爆者・山村知史氏は当時西坂小学校の3年生で自宅にいて被爆したことを語った。原子爆弾は破壊力が強く、秒速400㍍、熱線は2000度という温度によって人間が炭化してしまうもので、原爆がいかにおそろしいものであるかを述べた。戦後、語り部をしようと思ったが、人間が炭化したり、手足を奪われたり、あまりにも無残な光景を思いだし、やめようとも思った。しかし、なにか役に立てばと語り部を始めたことを話した。「今問題になっている集団的自衛権は、専守防衛と違ってよその国が攻撃されたときに無条件で応戦体制ができるというものだ。私たちよりも上の人は一銭五厘の赤紙で武器も何も持たないで出て行って、途中で潜水艦にやられて死んだ人がいる」と語った。「小さいところから考えを起こして、平和な世界を作り上げようとみなが思っていくと戦争も出来なくなると思う。みなさんと一緒に考え、今後とも平和が長く続くように研究していきたいと思っている」と語った。
ここで、前日から広島に来て被爆者から体験を学んできた第15回広島に学ぶ小中高生平和の旅の総勢90人の子どもたち、教師、父母による構成詩が発表された。日頃から学校で頑張っている鉄棒や縄跳び、かけ算九九などの勉強、みんなで一つのことをやり遂げるために援助しあっていること、平和へのとりくみとして学校で平和集会を開くなど、学校内でも平和の大切さについて伝える活動をしていることなど、それぞれの地域でとりくんでいる活動を元気に発表した。平和の旅に向けたカンパ活動をとりくみ、多くの人人の期待を背負って出発した5、6日の2日間の旅で、広島、長崎の被爆者に学んだ感想を発表し、「僕たちに託された思いを真剣に受け止め、学んでいく活動をもっと強めていきます」「自分のことだけでなく、みんなのために役立つ人になって団結して活動していきます」と決意をのべ、90人が声を合わせて堂堂と平和宣言を読み上げた。
子どもたちの発表のあと、平和の旅を指導している山口県の小学校教師、佐藤公治氏が発言にたった。教師集団で一心不乱に子どもたちとむきあい、体育活動を重視して「みんなのために」の気持ちで子どもも教師も成長しながら奮闘していること、そのことが体力的にも精神的にも子どもを強くし、保護者にも圧倒的に支持され、教育実践として全国で広がっていることを報告した。安倍政府が戦争のための人づくり教育をごり押ししているなかで、「文科省の教育で子どもたちの成長を押しとどめるのか、被爆者や戦争体験者に、地域、父母の願いにたった教育で子どもたちをいきいきと社会の担い手に育てていくのか、しのぎを削る局面を迎えている」といった。「教え子を絶対に戦争にやらない。アメリカの植民地的隷属を断ち切り、平和で豊かな社会を作り出す子どもを育てる」と決意を述べた。
沖縄の野原郁美氏は名護市辺野古への新基地建設の動きが新たな段階に入っており、基地建設に反対する県民との矛盾が激化していると語った。今年の特徴としては、一月におこなわれた名護市長選で基地反対が圧倒的な勝利をおさめたこと、その後の那覇原爆展や現在とりくみの始まった沖縄市「原爆と戦争展」でも、とりくみ段階から賛同人が労働者を中心に増えており、期待と支持が広がっている様子を報告した。
岩国の森脇政保氏は、アメリカが最後の賭けを「アジア重視戦略」に求める動きのなか、岩国基地では大規模な地下施設をはじめ多くの軍事施設を更新して、極東最大の核攻撃基地化に拍車をかけている状況を報告した。「岩国市民の心からの願いは、子や孫のため日本の将来のために基地を撤去して、真に独立した平和で豊かな日本社会を建設することだ。これは変わることのない岩国市民の要求だ」と語り、集団的自衛権の閣議決定を契機に人人の意識は激変しており、「日本の真の独立と平和を実現する全国民的運動を巻き起こす時勢の到来を告げている」と述べた。
注目されたデモ行進 沿道から連帯する市民
原爆展を成功させる会・名古屋の矢神繁氏は、「安倍政府が戦争の反省を覆し、集団的自衛権の行使容認に突っ走るなど日本社会が歴史的な岐路にたつ現在、この政治を阻止するためにはどうしたらいいのか、という問題意識と結びついて、原爆と戦争展が生命力をもって発展してきた」と述べた。名古屋や豊橋での原爆と戦争展の開催を重ねるなかで、若い世代も、戦争体験者も使命感にかられて行動していること、賛同者たちのなかで同展が自分のものとしてとりくまれていることを語り、「あれこれの手練手管や欺瞞のベールを引きはがし、あくまで原点に返ることが安倍政府の暴走を食い止め、日本の未来を切り開く人民大衆の力を激励し、結集させるものだと思う」と結んだ。
原爆展を成功させる岡山の会の中井淳氏は、岡山大学、金光町、鴨方町の3カ所で開催してきた原爆と戦争展のとりくみを報告。見ず知らずの人が宣伝の九割を手伝ったり、中学校校長や町内会長、医師会、宮司、大学の教職員などの幅広い人たちが自発的に宣伝活動をして3カ所とも成功してきたことを語った。「この原爆と戦争展をさらに全国で広げていきましょう。亡国の道を食い止めるため、ともに奮闘しましょう」と締めくくった。
ここで、下関原爆被害者の会会長の大松妙子氏が発言。「六九年たてども、あの悲惨、恐怖は脳裏から消えることはありません」といい、原爆によって13歳と15歳の妹2人を殺された体験を語った。挺身隊として郵便局に勤めていた15歳の妹は、無傷だったのに、3日後に髪がぬけ、さらに3日後には胸が苦しくなって血の塊を洗面器一杯にはき出し、口をふさぐと耳から出てきて、手を施すすべもなかった。もう一人の妹は建物疎開中で全身に酷いやけどを負い、薬もなく死んでいったこと、「妹だけでなく数十万人の被害者がただただ死ぬのを待つだけだった」と語った。
そして、福島原発の汚染水の解決の道すらたっていない現状にもかかわらず再稼働を叫んだり、「私が最高責任者だ」といって憲法解釈を変えていく安倍政府について、「歴代総理が変えなかった憲法を憲法解釈で変え、集団的自衛権といって自衛隊を盾にする考えでしょうか。積み木崩しの総理。戦争への仕掛け人。国民無視の総理は要らない。私たち、戦争・原爆被害者は、あの廃虚から苦難とたたかい平和を築いてきた。それを破壊する者とたたかいます」と力強く述べた。
続いて、原爆と戦争展にスタッフとしてかかわっている広島の大学生2人が発言にたった。男子学生の一人は、昨年から原爆と戦争展にスタッフとして参加するようになり、1年間を通じた街頭展示や展示の宣伝活動のなかで学んだことを述べた。「当時の原爆の被害を実際に体験している方はいずれいなくなってしまうが、次の世代がなにもしなければ戦争の事実は次の世代に伝えられないままになってしまう。それが歴史の認識を誤らせ、争いに発展してしまうのではないか」とのべ、展示のなかでさまざまな人と出会ったが、「とくに目を引いたことはこの活動に参加したいという気持ちがある人がかなり多いことだ。先日、原爆展物語をみたとき、自分のやっていることと重なり、間違っていないと確信することができた」と語った。会場からは期待をこめた大きな拍手が起こった。
学内での原爆と戦争展をきっかけに街頭展示にかかわっている学生は、「この原爆と戦争展を通じて広島の思いを受け継ぎ、行動していこうと感じている人人の橋渡しとなり、この運動が少しでも広がっていく力になれればと思う」と述べた。
劇団はぐるま座の斎藤さやか氏は、1昨年の創立60周年の人民劇団としての出発点にたち新たな段階で活動を展開していると報告。秘密保護法の強行可決、集団的自衛権の行使容認の閣議決定などにあらわれる戦争政治に、「絶対に戦争をさせてはならない」と、命がけの思いが各地で渦巻いていること、それに真剣勝負で答えなければならないと述べた。一昨日公演した、『峠三吉・原爆展物語』に熱い反響が寄せられており、また、昨年沖縄で公演した『動けば雷電の如く』の公演が名護市長選の勝利もあわせて日本社会の立て直しにむけた世論を巻き起こしていると報告。「大衆のなかから大衆のなかへの創造・普及路線をいっそう研ぎ澄まし、時代を動かす芸術活動をより広範な人人とともに発展させていく」と決意を述べた。
このあと、広島の女子大学生によって集会宣言が読まれ、大きな拍手でこれを採択し、シュプレヒコールをおこなったあと、デモ行進にくり出した。デモ行進は県民文化センターから平和大通り、八丁堀交差点を経て原爆ドームへ向かった。若い世代や平和の旅の子どもたちが先頭にならび、「広島・長崎の新鮮な怒りと戦争の真実を若い世代に、全国、世界に伝えよう!」「アメリカは原爆投下を謝罪せよ!」「原水爆の製造・貯蔵・使用の禁止!」「中国、朝鮮、アジア近隣諸国との敵対でなく友好を! 国際紛争については武力ではなく話し合いで解決を!」などのスローガンが高らかによびかけられた。また峠三吉の「序」「八月六日」を子どもたちが群読した。元気に頑張る子どもたちの姿を見て、沿道の市民が拍手して応援したり、親子連れが手を振りながら見守る姿が見られた。シュプレヒコールをいっしょに連呼する人人もいた。