76年目の原爆記念日を迎えた広島市で6日、原爆展を成功させる広島の会(末政サダ子会長代行)が「被爆者・被爆二世と市民の交流会」を開いた。新型コロナ感染防止対策をとったうえで、被爆者、被爆二世、教員、社会人など約20人が参加し、交流した。原爆犠牲者への黙祷を捧げた後、被爆者や被爆二世が壮絶な体験を証言。広島市民の使命として、その体験や思いを共有し、核兵器廃絶の誓いを次世代や全国、世界の人々に継承していく決意を新たにした。
親兄弟を奪った原爆投下 被爆者の本谷量治氏
はじめに被爆者の本谷量治氏(93歳)が体験を証言した。本谷氏は被爆当時17歳で、高等科を卒業して国鉄の印刷工場(広島駅付近)に勤めていた。「朝8時に外へ出てラジオ体操をし、職場の朝礼をしている最中、ピカッと青白い光が走った。“なんだろう”と思った瞬間に建物の下敷きになり、意識を失った。気がついて“助けてくれ!”といっても誰もおらず、朝なのにあたりは薄暗い。その後、ケガを見た職場長のすすめで鉄道病院にいったが、ここも潰れて何もない。大須賀の踏み切りの近くにあった職場に戻るとすでに火が移って燃えていた」という。その後、治療をしてもらうために東練兵場に行くと、ヤケドをした騎兵隊の兵士たちが「水をくれー、水をくれー」と叫んでいた。だが薬はなく、油を塗って包帯を巻くだけだった。
一夜を明かした二葉山から見た広島市内は、一面火の海だった。翌日、薬研堀にあった自宅に行くと風呂釜があるだけですべて燃え尽きていた。自宅は建物疎開の対象になっており、8月10日までに荷物を出して明け渡さなければならなかったので、その日も母と弟が作業をしていた。直爆を受けて家は燃え、母と弟は海田市まで避難したものの、8月末頃から体中に紫色の斑点ができ、髪の毛が抜けて寝込むようになった。
敗戦後の9月初め、朝鮮に出征していた兄が釜山から帰ってきたことを知り、母は「これで安心した…」といって9月8日に息絶えた。燃料会館(現在のレストハウス)で電話交換手をしていた姉も、元安川づたいに逃げたが8月9日に死亡。「鼻も口の中もただれ、食べることができず吐血をくり返し、やはり体中に紫の斑点ができ、髪が抜けた。原子病だった」。
一番下の弟(13歳)は建物疎開作業のため、爆心地に近い雑魚場町(現在の市役所付近)に行ったまま被爆し、現在にいたるまで行方不明だという。
本谷氏自身も40度の高熱が続き、死を覚悟する日が続いた。「肺結核、急性肺炎などの病気をくり返し、6年前には原因不明の病気で1週間入院し、5年前には胃がんを患った。原爆はどれだけ時間がたっても何が体に出てくるかわからない。そのたびに母や弟のように体に斑点ができないか心配している」と話した。
亡き母の遺志を継いで 被爆二世の藤井千鶴氏
次に、リモートで参加した被爆二世の藤井千鶴氏が母親から聞いた被爆体験を伝えた。藤井氏の母は、広島の会の語り部として活動し、4月5日に逝去した日高敦子氏。
「母は当時9歳で、千田国民学校四年生だったので三次市に疎開していたが、8月4日に広島市の南観音にいる叔母のところへ、祖母と従姉妹の芳江ちゃんと一緒に戻ってきていた。芳江ちゃんは自分の母親が住む八丁堀へ行き、母は南観音で8月6日を迎えた。朝、千田町の実家へ行く準備をしているときに原爆が投下され、母は“太陽が真っ赤になった”と思った瞬間、落ちてきた家の梁に押し潰されたという」。日高氏は、当時の惨状を絵に描き、娘である藤井氏にも当時の光景を描かせた【絵参照】。
「母たちがいた南観音は爆心地から3・5㌔離れていたが、芳江ちゃんの家は爆心地から850㍍の至近距離にあった。8月8日、従姉妹の家族を探しに家族と一緒に焼け野原の市内に向かった。家は炎に包まれ、叔母は潰れた家の下敷きになっている我が子の芳江ちゃんを助けようとしたが一人では助けられず、“この下に芳江がおるんよ!”と叫んだが、“あんたが死んだらどうするのか”と周囲に止められ、泣く泣くその場を逃れたという。叔母は我が子を置き去りにしてきたことを悔やみ、後日、焼け跡から出てきた芳江ちゃんの小さな骨を拾って三次へ疎開した。その後、紫斑ができ、髪が抜け、食欲もなくなり、9月8日に幼子2人を残して34歳の若さで亡くなった」。
「母は、おびただしい死体や白骨が散らばる市内を歩いていたとき、袋町の日本銀行広島支店前で防火用水に浸かっていた女性と目があったという。それが9歳の母の脳裏に強く焼き付き、女性の目が“あんただけは私のことを忘れんさんなよ!”と訴えているように見えた、と生前よく話していた」という。
日高氏は1999年から被爆体験を語り始め、広島の会では修学旅行や小学校に出向いて証言活動を精力的におこなった。2001年から甲状腺ガン、喉頭ガンなどを患い、計11回の手術や放射線治療をくり返し、2018年に声を失った。それでも発声補助器を使って証言活動を続けた。藤井氏は「母の最期の姿は、亡き叔母の最期を彷彿とさせるようだった。毎日吐血し、寝ていたら血が喉に溜まるので、ベッドに腰掛け、頭を下げては血を吐いていた。それは残された体力を振り絞り、鬼気迫るものだった。そのときの母の顔はまるで袋町の防火用水に浸かっていた女性のように“あんただけは私のことを忘れんさんなよ!”という顔だった。私は母が残したものを決して忘れることなく、伝えていきたい」とのべ、日高氏が遺した短歌を読み上げた。
「原爆を/忘れしときなし/広島の/友の無念を/語り継ぐ夏」――これが親から娘へ託した最後の言葉となった。
教師や被爆二世が決意交流
被爆体験証言を聞いた後、被爆者を親に持つ被爆二世や大学生、中学生、教師、社会人が、次世代として被爆者の体験や思いを受け継いで活動していく決意を語った。コロナ禍で参加できない北海道の小学校教師や外国人、学生からもメッセージが寄せられ、広島の心を世代や国境の壁をこえて共有していく意欲を繋ぐ交流となった。
被爆二世の女性は、7月19日から31日まで旧日本銀行で開催した「原爆と戦争展」に、コロナ禍の制約のなかでも子ども連れの親たちが訪れ、熱心に子どもに読み聞かせていたことや、若い人たちの真剣さについて触れ、「被爆二世として親たちに聞いてきた体験を文章にして残していきたい」と抱負をのべた。
20代の中学校教員の男性は、学校に被爆二世の女性を招いて平和学習をおこなったことを明かし、「76年たっても苦しみが続き、守りたいものを守ることができなかった被爆者の方の苦しい境遇について子どもたちは率直に受け止めている。ある子は“被爆者の方は私たちより何倍も苦しいのに、一生懸命に生きて、その辛さを伝えてくれている。私たちは戦争を体験していない分、何もわからないけど、伝えてもらったことを伝えることができる”と感想を記していた。被爆者の方が発してくださる強いメッセージから子どもたちが希望を受けとっていることがうれしいし、被爆体験を原点にして子どもたちとかかわりながら、平和を求める心を育てる仲間を増やしていきたい」と決意をのべた。