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『あざみの花』 被爆75年目の夏に送る一つの家族の体験記

 1945年8月6日、アメリカが人類史上ではじめて原子爆弾を広島の老若男女の頭上に投げつけてから、75年目の夏を迎えた。岩国市在住の古川豊子氏は、当時10歳で、広島市内から離れた現在の北広島町に住んでいたが、母が姉を連れて伯父夫婦を探しに原爆投下直後の広島市内に入り、二次放射能を浴びた。その後、白血病と乳癌を併発して変わり果てていく母の姿と、看病する父や家族の悲しみを、古川氏は72年間誰にも話さずにきたが、二度とおなじあやまちをくり返してはならないという強い思いから体験記を書いた。本紙はこの体験記を、小学生から大人までが読める絵本『あざみの花』として2017年に出版し、英訳を添えた対訳版も2019年に出版した。今回あらためてその内容を掲載する。なお、鉛筆画は西沢昌子氏、題字は米本秀石氏による。

 

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 母を花にたとえるなら、初夏の畦道や山野の雑草の中に咲く『あざみ』の花と言えるかも知れない。

 

 あざみの花は「触れないで」の花言葉をもち、他の花のような華やかさはないが、6月の風景にもっともふさわしく、郷愁をそそる不思議な花である。

 

 そのあざみの花のイメージをもつ健康な母が白血病にかかり、さらに乳癌にかかった。病気が悪化するにつれ、これまでのように私たち子どもと遊ぶことも、優しい言葉の一つも忘れてしまい、自分の暗い殻の中に閉じこもってしまった。

 

 多くの人がそうであるように、母もまた長年苦しみ続け、狂ったような症状で息を引きとった。哀しい生涯であった。

 

 昭和20年8月6日、世界ではじめてアメリカの手によって広島に原爆が投下され、一瞬にして幾十万の尊い命が犠牲となり、72年経った今でも尚多くの人が後遺症に苦しみ、原爆による放射能の恐ろしさに怯えている。

 

 8月6日、その日爆心地に近い広島市千田町で時計店を営んでいた伯父夫婦は、爆風によって店のガラス戸が吹っ飛び、2人は全身にガラス片が突きささり、瀕死の重傷の状態のまま何の手当も受けず防空壕の中で過ごしていた。

 

 伯父夫婦を案じた母は12歳の長女である姉をつれて駆けつけ、伯父が亡くなるまでの3日間を多くの負傷者と一緒に過ごし、二次放射能を浴びた。

 

 被爆後4年、母は二次放射能による白血病に冒され乳癌を併発した。

 

 当時は街の病院へかかるということは大変なことで、ことに広島の日赤病院への入院はよほどの重病人と考えられ、二度と生きては帰られないものだと誰もが決めつけていた。

 

 そうした噂の中で母は日赤病院へ入院して右の乳房を大きく抉り取った。乳癌とはどんな病気かよく分からないまま手術を受けた。

 

 長い入院生活が続き、私たち子どもには病気の経過はあまり知らされなかったが、付き添いの人がときどき父に話しているのを遠くから聞くだけで父も話してくれず、詳しい事は知らなかった。

 

 やがて傷も癒えて退院したもののコバルト治療のため週3回、日赤病院へ通院することになった。

 

 コバルト治療が絶対的なものと立証されないまま、母がその度に弱っていくのを誰も止めることができず、再発を防ぐ唯一の手段として、医師のすすめるままに木炭バスにゆられ2時間以上もかかる石ころ道を通い続けた。

 

 このとき母は子どもを身ごもったが出産はおろか、奇形児が生まれるという噂の中でその子は中絶した。男の子だった。

 

 母の莫大な治療費のために父は仕方なく田畑を手放していたが、土地を売るということは農家にとってどれだけ辛いことか。土地は家族が生きていくためにもっとも大切なものだという事は子どもなりに理解できた。父の苦悩と母の苦しみの日が続いた。

 

 一度治癒した乳癌が3年目に再発した。今度は左の乳から腹部まで転移していると言われ、手術は不可能とされた。母にとってそれは死の宣告も同様であって、それからの落胆ぶりはひどく、「いつまで生きられるかしら…」と、口ぐせのように言う母を父は叱った。その父もぼんやりとしていることが多く、暗い日々が続いた。

 

 母の衰弱が日増しにひどくなり、コバルト治療も効果がなく通院も止め、むろん入院はできない。村に一軒しかない老医師にかかりながら死を待つだけの暗くて辛い日を重ねていくより仕方がなかった。

 

 「子どもさえおらんかったら……」

 

 そう言う母は自らの命を絶つことを本気で考えているようで、父は目が離せないと怒った。

 

 母は自分の病気の事はよく知っていた。詳しい専門的なことは分からないにせよ、癌が進行するにつれ、クロールプロマジン製剤を中心とした鎮痛剤は効かなくなることや、癌が脊髄から脳へ上がる恐ろしさなど、長い入院生活や通院で患者を通して確かめていた。

 

 さらに入院患者の苦しみや、のたうち回る断末魔の凄惨さを見て、

 

 「私もあんな風に苦しむのだろうか」

 

 と、やがて襲うだろう死の恐怖に脅えていた。

 

 ある日、母は何を思ったのか珍しく枕元の鏡台の前に座り、引き出しから黄楊の櫛を取り出して髪を梳いた。ところが櫛を入れたとたん、髪がぱらぱらと膝に抜け落ちた。さらに櫛を入れると髪は同じように抜けた。

 

 なんの抵抗もなく不気味な感触でさくさくと抜ける長い髪を見て母は呻めいた。呻きは叫びとも唸りともつかない異様な響きでそこにいた私を怯えさせた。

 

 母はやにわに傍にあった裁ち物用の鋏をつかむなり、思いきり鏡台に叩きつけた。

 

 鏡は鋭い音を立てて割れ、辺りに飛び散った。母は完全に理性を失ったのか、それとも癌が脳を冒しはじめたのか、血に染まった手でなおも鏡台を叩きつけた。

 

 鏡は女の命とも言う。ましてや嫁入り道具の一つとして鏡台はもっとも大切なものとされてきた。

 

 朝々、母は自慢の黒髪を梳かし、くるっと器用に結い上げていた。髪の手入れが終わるときまったように赤い布の鏡掛けを手で撫ぜるようにして下ろしていた。その大事な鏡台が一瞬にして見るも無惨に壊れてしまった。

 

 立ち上がる気力もないほど弱り切った母のどこにそれだけの力が隠されていたのか、無謀というよりその凄まじさは異常であった。それはこれまで一度も見たことのない殺意を持った凄みのある母の横顔だった。

 

 血を帯びて鬼にも似た形相の母がすぐ後ろにいる私に飛びかかってくるような気配がして、その場から逃げ出そうとしたが体が硬直して立ち上がることも、這い出すこともできなかった。

 

 むろん声を出して誰かを呼ぶこともできない。目だけをカッと見開いたまま、土人形のようにその場に張り付いていた。

 

 ただならぬ物音に気付いた父が息をきらして駆け込んできた。草履を脱ぐまがなかったのか、片方の足に土の付いた藁草履をつっかけたままであった。

 

 蒼白い顔を引きつらせ、狂ったように哭き叫ぶ母を父は自分の膝の上に抱き上げ、

 

 「ハルヱ、ハルヱどうした!!」

 

 母の体をしっかりと抱きしめて揺する父にしがみ付く母は、

 

 「お父さん殺して、殺してよお!!」と哭き叫んだ。

 

 「ああ殺してやるよ、今楽にしてやるからのお!!」

 

 父も張り裂けるような声を発して母の体をしっかりと抱きしめていた。喉を引き裂くような声で哭き喚く母をなだめる父も泣いていた。

 

 血に汚れた母と抱き合ったまま泣き崩れる2人の姿はあまりにも惨めで残酷この上もなく、この世の地獄絵図そのままで引き裂かれるほど辛く哀しかった。

 

 その時まだ十代の私にとって、この時の光景は体の隅々まで染み込んだ。

 

 騒ぎを聞きつけ外から戻ってきた2人の妹は、その場の光景に体を引きつらせ言葉もなくそこに突っ立っていた。

 

 いつの間にか辺りに夕闇がせまり、物音一つしない家の中に開け放された裏木戸を叩いて冷たい風が吹き込んだ。

 

 その日以来、母は二度と鏡を見ることも櫛を使おうともしない。それどころか私たち子どもの誰一人として傍へ寄せつけず、一日中明かりを閉ざした部屋に閉じこもり、ますます無口になっていった。

 

 夜中に戸の隙間から母のすすり泣く細い声を聞くようになり、闇の中で上向いたまま、眠られぬ私は原爆さえなかったら!! と、8月6日の出来事を限りなく憎悪した。

 

 井戸端の柿も赤く熟し、吹く風に肌寒さを覚える季節になった。母の病状は一層ひどくなり、父の作る重湯もほとんど喉を通らなくなった。

 

 「これ位は無理をしてでも食べんと元気になられんでよ」

 

 父の言う事はいつも同じで無理矢理に口に押し込むようにしてスプーン一杯の重湯をのましていた。

 

 この頃から母はときどき幻覚や幻聴に襲われるのか、奇妙な事を言うようになった。それらは亡霊とか殺意とかの恐怖につながるものではなく、以前に母が可愛いがっていた猫が出てくるのか、うれしそうに猫の名前「ミミ」をしきりに手招きをして呼んだり、亡くなった祖母が見えるのか楽しそうに話をするなど周りの者を驚かせたりした。

 

 こうした中で痛みはだんだんひどくなり、痩せ細った体を海老のように曲げて息をのんで苦しんだ。その痛みは頭であったり胸や腹、また手足など至るところに激痛が走った。

 

 父は終日母の傍へ付いていた。母の体を拭くときと、おむつを替えるときは部屋の戸が閉められ、絶対に開けてはならないことになっていたが、その日私はうっかり戸を開けてしまった。それは夕食の煮物の味を父に見てもらおうと思い、小皿をかかえたまま部屋に入って行った。

 

 父は私が戸を開けたのも、声をかけたのも気付かず後ろ向きで母のおしめを替えていた。臥せたきりの母の腰から下が丸出しになっていた。

 

 あわてて私は目をそらそうとしたが意識的に目が止まった。丸出しになったままの母のお尻のまわりは赤黒くなり、これまで色が白かっただけによけいに黒く見え、目を覆いたくなるほど汚なさを感じた。

 

 赤黒いお尻のまわりに幾つかの腫れものができ、それが痒ゆいらしく母は体をくねらせてむずかっていた。父はその腫れものを撫でるように掻いていた。この腫れものは被爆者特有の症状であることを私は後で知った。

 

 この頃の母は哭くことも喚めくこともなく、激痛の起こるとき以外はほとんどうつら、うつらと眠っていた。

 

 急に冷え込んできた日の午後、母は何を思ったのか、しばらく見ない家の中が見たいと言い出した。子どものようにねだる母を父は背中におぶった。

 

 このところ急に甘えるようになった母を私と二人の妹は同じように顔を膨らませて妬たんだ。妬むことによって母への愛を確かめようとした。哀しいと思える程の愛の確かさであった。

 

 「お母さんが軽うなったのお……」

 

 母のあまりの軽さに父は深いため息をつき肩を落とした。そう言う父もこのところ目立って元気がなく、髪や髭がすっかり伸びてぼんやりしていることが多くなった。

 

 まだ四十代の若い母は老婆のように皺が寄った細い足をだらんと垂らして父の背中に張り付いている。

 

 家の中の上の間、中の間そして広い周り縁をゆっくりと歩いた。冷え切った家の中を母はそれでも満足そうに目を細めて父の背中にしがみ付いていた。長くて短いひと刻であった。

 

 背中から降りた母は急に刺身が食べたいと言った。このところ何も食べようとしない母だけに珍しいことであった。

 

 「刺身が食べられるようになったら、今度こそお母さんが起きられるかもしれんのお」

 

 母を元気づけるために父は大川橋を渡って村に一軒しかない魚屋へ自転車を飛ばした。その刺身をたった半切れ食べただけだが、久しぶりに美味しいと舌鼓を打つ母を見て、

 

 「これが最後かもしれんのお……」

 

 と父が小声でぼそっと言った。

 

 数カ月ぶりに見た家の中と、好きな刺身をたった半切れほど食べた母は丸めた布団に背をもたせて座った。久しぶりの一家団欒のようでうれしかったが、そこに座った母は更にひと回り小さく老けて見えた。

 

 「お父さん髪を梳いてちょうだい」

 

 母の思いがけない言葉に父は困った表情をしていたが、仕舞い込んでいた例の黄楊の櫛を取り出すと母の頭に当てた。

 

 鏡台を叩き割って以来、一度も櫛を当てたことのない少ない髪は汚れて艶がなく、しかもひと塊になっていた。

 

 頭に張り付いたようになって容易なことで解けそうにもないその髪に、父はそっと櫛を当てるとゆっくり動かした。それは髪を梳くというのではなく、ただ気休めに櫛を当てるだけのことだが、それでも母は気持ちよさそうに目を閉じていた。

 

 私は恐れた。体が自然に震え上がってきた。また髪がぱらぱらと抜け落ちて母が狂ったようになき喚くのではないかと、はらはらして見ていたが、父の目がうるんでいるのを見て2人の妹をうながして部屋を出た。

 

 久しぶりに味わう静かな夕暮れであった。

 

 その年も暮れ正月を迎えた。暮れも正月もない重苦しい年明けだった。母の全身を襲う激痛は以前にもまして酷くなり、息をひそめるような暗い日々を重ねていった。

 

 あれ以来、母は家の中が見たいとか、刺身が食べたいなどとは言わず、ほんのわずかな水物と往診してくださる医師の打つ注射だけで、あとはほとんど眠っていた。

 

 すでに用便も出なくなり、1日置きに注射を打って出してもらっていたが、尿のたまった腹をかかえて苦しんでいた。しまいには、

 

 「死んでもええ! 注射をしてもらって!!」

 

 と泣き叫び父を困らせていた。

 

 雪が降り凍りつくような寒い朝、母が突然に痙攣をおこして苦しみ出した。これまでとは違う苦しみ方に父は死期の近づいたことを知ってか、緊張した表情で母の枕元へ座った。あれほど死にたいと言っていた母が、喉を引き裂くような声で「死にとうない!!」と、確かにそう叫んだ。

 

 駆けつけた医師は悶え苦しむ母をみて沈痛な表情でゆっくりと頷いた。それが何を意味するのか私にはよく分からなかったが、緊迫した空気の中で母の容態が急に悪くなったことだけは分かった。

 

 いつの間にかそっと部屋へ入ってきた二人の妹はしっかりと手をつなぎ、硬直した表情でそろりそろりと私の後ろにすがり付いた。そして父と母の動きをじいっと見つめていた。

 

 その日の父は珍しく私たち子どもに部屋を出て行けとも言わず、むしろそこにいることを望んでいるようにさえ思えた。

 

 何度も肩で大きく息をしていた父が何を思ったのか、医師の前に座り直すと手を合わせた。それが一体何を言おうとしているのか、どうした意味なのかその時の私には想像も付かずただ黙って父の様子を見つめていた。

 

 母の痙攣はますます酷くなり、顔を引きつらせて息を途絶えがちに吐いた。半開きの眼は吊り上がり、悲愴なまでの苦しみはそこにいるみんなの息まで詰まらせた。

 

 苦しみは更に酷くなり、体を反らしたはずみに着物の袷せが乱れ胸が出た。父はあわてて着物の胸を合わせようとしたが手が震えてなかなか思うようにいかない。

 

 むき出しになった母の胸には、これまで私たち子どもには一度も見せたこともない生々しい傷痕があった。当然のことだが白くて柔らかい右の乳がない。その上に再発した癌が左の乳を蝕んでいるのか、妙にこわばり乳の形を崩していた。

 

 四十代のまだ若い母は見るも無惨な体で悶え苦しんでいる。その母が何かを言おうとするのか喉がしきりにぴくぴくと動いている。その喉のまわりもぶつぶつと小さなしこりが一面に広がっていた。数年前、右の乳房にたった一つあった小さなしこりがこれほど多くなろうとは……。

 

 そこに居合わす医師も父もそして私たち子どもも、死の淵を這いずり回る母の残虐とも言える苦しみを息を殺して見つめていた。長い刻が経った。

 

 その間父は何度も医師に手を合わせ、畳に頭をすり付けて何かを一心にたのんでいた。

 

 身じろぎもしなかった老医師がゆっくりと黒い往診カバンを開け、中から一本の注射を取り出し母の腕に打った。医師はゆっくりと腕から注射を抜き、そのまま母の手を抱くように持っていた。母はそのまま何事もなかったように深い眠りに落ち入った。

 

 雪は降り続き、いつの間にか白く積もっていた。父は私たち三人を母の枕元へ呼び、

 

 「みんな、お母さんの顔をよおく見とけよ。お母さんはえっと苦しんだが…」

 

 これが最期だと言おうとしていたが声にならず、母の手をしっかりと握っていた。間もなく母は眠るように息を引きとった。

 

 「死にたい!!」「生きたい!!」と生と死の葛藤の中でついに長い苦悶は終わった。雪の多いこの地方の長い冬も終わろうとする3月11日、母は小さな骨壺に納まった。あざみの花の面おも影かげを遺のこして。

 

 その後、母の病気は原爆二次放射能による被爆者として認定されたが、父はがんとして受け入れず原爆は関係ない、二次放射能は受けていないと言い張った。

 

 それは私たち子どものための深い考慮であることを私は知っていた。その頃原爆のことをピカドンと言い、ピカドンは感染する、奇形児が生まれるなどと、被爆者が多くの人に敬遠されていたことを。

 

 歳月が経ち、いつとはなしに村でも原爆のことを誰も口にしなくなった頃、母の命日に合わせたように父も痩せ細って息を引きとった。やはり雪の降りしきる寒い夜だった。

 

 歯も合わないほど痩せ衰えた父が『原爆さえなかったら!!』と畳を叩いて号泣した後ろ姿はあまりにも残酷すぎて眼裏に貼り付き、今でも拭い去ることができない。

 

 そして8月6日、母と2人で入市被爆した12歳の姉は、母と前後して広島の日赤病院へ送られ入院した。

 

 姉の看護に当たった私の目の前で、突然身を反らして苦しみ、意識不明のまま若い命を閉じた。原因不明のままで。春3月、月のさえ返る寒い日の夕刻だった。

 

 あ と が き

 

 被爆後72年、胸の奥深く閉じ込めてきた母の悲愴なまでの死の光景は、私一人のものとして命を閉じるまで守り切ろうと自分に言いきかせてきました。

 

 ところが、同じ悼みを持つ何十年来の仲間である先輩から、

 

「むしろその惨状を一人でも多くの人に知ってもらうことがお母さんへの供養かも知れない」

 

 と静かな口調で言われ、じいっと見据えられた時、私の頑なな心にすっとその先輩に対して畏敬の念にも似た尊いものがよぎり、同時にあざみの花を思わす母の笑顔がうかんだのでした。

 

 先輩と約束したものの、机に向かうとどうしても書くことができません。何をどう書き出してよいか解りませんでした。

 

 『お母さん書かせて下さい』『お父さん力を貸して下さい』と一心に手を合わせても残忍な光景が浮かび、涙が出るばかりでした。どんなに辛かったであろう父と母を思って--。

 

 ことに畳に頭をすり付けて手を合わせて医師に哀願した父の胸中の引き裂くような辛さ。また切り刻んだほどの傷跡の残る胸をはだけ、身を反らして悶え苦しんだ母のあの酷たらしい姿は誰にも知られたくなかった。まっ白い布で覆い隠したかった。両手をいっぱい広げて父を母を守り、あざみの花で埋めつくしてあげたかった。

 

 被爆後72年、あの酷たらしい惨状は忘れようとしても忘れ去ることはできません。『原爆さえなかったら!!』と私自身が何度叫んだか知れません。

 

 あの母の呻きも父の叫びも私だけの苦しみではなく、昭和20年8月6日、一瞬にして幾十万の尊い命が犠牲となったその人達の呻きであり叫びでもあります。

 

 『二度と原爆をくり返してはならない!!』

 

 この強い願いを全世界へ向かって今こそ核兵器の廃絶を声を大にして訴えていきたい。平和を願って命のある限りを。

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