1945年6月29日と7月2日の二度にわたって、米軍が下関中心部の密集地に焼夷弾を投下、多数の市民を殺傷し焼け野原にした空襲から70年目を迎えた。この空襲は、すでに制海権、制空権を握っていたアメリカが沖縄戦の血塗られた手で、下関のなんの罪もない女、子ども、年寄りを狙って虫けらのように焼き払う残忍なものであった。それは全国六七におよぶ都市への空襲の一環であったが、その被害は、中国地方では原爆が投下された広島に次ぐ大きなものとなった。惨禍を肌身で体験した市民の証言から下関空襲の実態に迫り、後世に伝えていくことは、郷土において戦争阻止の世論と行動を力強く発展させるうえで、大きな意義を持っている。
軍事施設や三菱は無傷で残る
6月29日午前1時10分ごろ、B29の大編隊が壇之浦上空にあらわれ、阿弥陀寺町から赤間町までのあいだ、宮田、唐戸、貴船、園田、田中、東南部方面に焼夷弾を投下した。空襲警報が解除され、市民が防空壕から出てほっと一息ついていたとき、突如火の玉のような焼夷弾が降り注いできた。市民は防火訓練通りに、町内の消火班や隣組のバケツリレーで鎮火をこころみた。しかし各所に大きな火柱が立ち、みるみるうちに火炎に包まれ手のつけようがなく、家族とも連絡がとれないまま防空壕や高台を逃げまどった。街頭で、あるいは屋根を突きぬけた焼夷弾の直撃を受けて死んだ人も少なくなかった。この空襲で、明け方までに市街地の東部地区は焼け野原となった。
7月2日午前零時10分ごろ、その余煙が去らないなかでの焼夷弾による攻撃が襲った。3日前の惨劇がさらに広範囲にわたってくり返された。この空襲は規模のうえでも前回を上回るもので豊前田から西細江、観音崎の倉庫群と入江、丸山、東大坪、高尾、南部、西之端、田中、園田、宮田各町など、彦島・新地を除く旧市内中心部が焼き尽くされた。こうして市街地108万9000平方㍍が廃虚と化し、ガス・電気・水道・電話・電車の電線などすべてが破壊され、その機能がすべて停止するという壊滅的な打撃を受けた。
22歳のときに園田町で空襲にあった女性は、「空襲警報が鳴り響いて、母と2人で防空壕に逃げた。父は園田町の町内会長で、警防団長でもあったため逃げずに町内の人人を防空壕に逃がしていた。防空壕に避難し息を潜めていると、隣のおじさんが壕のなかに入ってきて、“お宅のお父さんの肩に焼夷弾が直撃して亡くなった”と教えてくれた。確かめに行きたくても外は火の海で、とてもじゃないが出ることができなかった」と話した。
空襲が終わり、防空壕の外に出ると辺りは一面丸焼けでなにもなくなっていた。「本当になにもなかった。おじさんが教えてくれた場所に行くと、遺体はすでにどこにもなく骨がほんの少しだけあってその骨を缶の中に入れた。別の近所のおじさんは、家の前の大きな防火水槽の中に首を突っ込んで死んでいた。戦争だけは二度とするものではない。私たちのように戦争を体験した世代はみな“また戦争になりそうだ”と集まるたびに話している。あんな経験をこれからの若者や子どもたちに絶対にさせたくない」と痛切な思いを語った。
多くの市民が、B29の編隊が頭上を通過したときザーザーという夕立のような音が聞こえたと証言している。それは家屋を燃えやすくするためにガソリンをまいた音であった。米軍はそのうえに、生ゴムに油脂をつけた50㌔焼夷弾を420㌧も投下したのである。官庁の公式資料ではこの2度の空襲で市民324人が死亡、1100人が重軽傷を負うなど被災者は4万6000人をこえたことや、全焼・半焼などの建物被害は1万戸以上、と記録されている。しかし、被災者は共通して「そんな程度のものではなかった」と実感をもって語っている。死者の数などその正確な実態は、いまだにはっきりさせられないままである。
当時14歳だった女性は、空襲で丸山町の家が焼き払われた。「米軍の空襲はよく燃えるように最初に油を撒いてから焼夷弾を投下する。最初のうちはみんなで火を消そうとしていたが、どんどん火が強くなり消火どころではなくなったので、母とともに王江小学校に逃げた。近所の高齢者は警防団の人たちが背負い、私は幼い子どもの手を引いて逃げた。みんなで小学校の1階に身を寄せあって空襲が終わるのを待った。ケガをした人たちを手当しようにも赤チンしかなかった。包帯もなにもない。敵機が去り、火が収まるのを待って家に戻るとそこはもうなにもなくなっていた。着の身着のまま逃げたものだから、本当になにもなくなってしまった」と語った。
その後、親戚を頼って広島に移り住んだが、そこで原爆にあった。戦争が終わり、兵隊に出ていた兄も帰ってきて親子3人で下関に戻ったが、三畳しかない掘っ建て小屋での生活が続いた。「日本全国で、そんな焼け野原のなかをみんな必死になって復興させてきた。それなのに、再び戦争で日本が焼け野原にされるようなことが絶対にあってはならない」と、声を上げて訴える。
市民が焼夷弾攻撃に虚をつかれた原因の一つに、この年の3月以来、B29による関門海峡への機雷投下がくり返され、毎日のように空襲警報が発令されていたことがあげられる。その解除で一安心した矢先の襲来であった。
当時10歳で上田中に住んでいた男性は「毎日のように空襲警報が鳴るので、毎晩2人の弟の手を引いて家の近くにある防空壕の中で寝ていた」と語る。ある日、その防空壕の目の前に機雷が落下した。ものすごい轟音が響き、壕の扉が吹っ飛び、外に出ると地面に機雷がめり込んでいたという。その日からその防空壕は使えなくなり、文関小学校の裏にある防空壕に移った。
7月2日は、いつものように弟の手を引いて防空壕に行っていた。空襲警報が鳴り、いったん解除になった後にバラバラと雨が降った。それが油だった。「壕の中にいるときに小学校が燃えていると聞いて、外に出てみると現在レッドキャベツのある場所にあった菁莪小学校が燃え上がり、ぐらぐらと揺れて崩れていった。それを見て涙が止まらなかった」と語っている。
夜が明けて家に帰ると、家は焼夷弾が直撃して燃えてなくなっていた。家にいた2番目の姉は全身大やけどですでに虫の息だった。空襲警報が解除になって便所に行っているときに焼夷弾が落ちてきた。火だるまのようになっていたところを上の姉が抱えて家の前の防火用水につけたが、そこにも油が撒かれていたので火柱が上がったという。
「その日の午後3時頃に姉は苦しんで死んでいった。椋野の山に共同の墓地のようなものがあって姉の遺体をリヤカーに乗せて運んでいった。そこで軍の人たちが巨大な穴を掘っていて30~40体もの遺体が並べてあった。その一番上に姉を乗せて、そのまま土がかけられた」。
被害甚大な清和園 炎に包まれ80人が焼死
市内でもっとも被害の大きかった地域として、幸町の清和園の惨劇が語り伝えられてきた。炎から逃れようと清和園の高台に逃げた約80人の老若男女が両側から炎に包まれ、高台から下りることもできずにそのまま焼き殺された。1970年代なかば、同地に市立幸町保育園が設立されたとき遺骨が発掘されたのを機に、保育園と地元の有志が相談して、犠牲者の慰霊のための「幸せ地蔵」が建立された。毎年、犠牲者を慰霊する地蔵祭りが催され、子どもたちの未来のために平和への決意を新たにしている。
清和園に住んでいた祖父を亡くした女性は、「清和園の方は空襲から2日ほど経ってもまだ煙が上がっていた。3日後にようやく祖父を捜しに、草履で清和園まで上がったが、まだ地面が熱くてたまらなかった」と語る。まだ2、30人の死体が散乱していた。その惨状は、卒倒しそうなものだった。切腹したのか、腹から腸がはみ出したまま死んでいる憲兵、畑の肥壺の中に足だけを出して逆さまに死んでいる人、赤ん坊を背負ったまま、子どもをかばって仰向けになって死んでいる母親とその子ども……。
「祖父の遺体は、ポケットから見えた水道の栓につけていた名札からわかった。時計だけがカチカチ動いていたが、私たちが、おじいさんと声をかけた途端、祖父の鼻から血がどっと出た。まだ、体から煮え血がたぎる音がしていた。遺体は集団で荼毘(だび)に付すから、いるなら指だけでも持って帰るようにと憲兵にさえぎられて、祖父の体を家に持って帰ることすらできなかった」
このほか、岬之町では、岩盤の防空壕の上が焼かれ、壕内では市民が蒸し焼き状態で殺されたこと、大正通りの建物に逃げた市民が布団をかぶったまま集団死した姿で発見されたことなど、痛ましい犠牲については枚挙にいとまがない。
全国の半数が下関へ 機雷投下し「飢餓作戦」
アメリカは日本全国の港湾に投下した1万発をこえる機雷の半数、約5000発以上を関門海峡に投下した。これは、日本本土への食料輸送網を断ち切る「海上封鎖」「飢餓作戦」と称して強行された。関門地域では3月27日夜、B29 99機が来襲し、機雷1000個を投下して以後、敗戦前日の8月14日まで、ほぼ連日、昼夜の別なく投下した。このため、この期間内だけで、下関での警戒警報発令は102回におよんだ。
関門海域では、毎日のように機雷に触れて水柱が上がり、艦船が沈没する光景が目撃された。そのあとコメやコーリャン、大豆、麦などの食料が浮遊していた。関釜連絡船など大型船から5000㌧以下の船まで、あわせて5000隻以上が触雷して沈没座礁。海峡周辺は船舶のマストが林立する無残な「船の墓場」と化した。
機雷の爆発音と船の沈没があったあと、彦島には数多くの船員や兵隊などの死体が立て続けに流れ着いたことが、今も衝撃的に語られている。日明地点で病院船ばいかる丸の機雷による撃沈で、多くの少年航空兵の無残な200体もの死体が六連島に漂着、荼毘(だび)にふされたことも伝えられている。しかし、これほど多くの触雷による犠牲者の数や身元については不明なままで、その埋葬地すらわからない。さらに、関門海域には、いまなお2000個の米軍機雷が海底に沈んでいるという現実がある。
バラック小屋から始まる空襲の焼け跡の生活は困難を極めた。下関の医療機関の7割が壊滅し従軍医師が帰らないなかで、真夏の暑さが加わり集団赤痢が急激にまんえんした。下関の戦争前の人口は21万2000人を数えたが、直後には15万5000人に激減していた。
下関は九州と本土、大陸を結ぶ交通の要衝であり、日清・日露戦争のときから「国防の拠点」として位置づけられ、西日本における最大の軍事的要塞地帯として築かれてきた。貴船町には要塞司令部が置かれ、その周辺には下関重砲兵連隊、大畑練兵場、倉庫や火薬庫、医務室、兵舎などの関連施設が密集していた。火の山、後田、金比羅、戦場ヶ原、彦島などに砲台を備えた要塞があり、また、小月には第12飛行師団司令部を置く防空戦斗機隊、吉見には第七艦隊の主力の下関海軍防備隊が配置されていた。また彦島には三菱造船があり、長府にも神戸製鋼など大きな軍事工場を抱えていた。
しかし民家の密集した地点への焼夷弾攻撃や、機雷によって民衆にこれだけの惨害を強いる一方で、これらの軍事施設、三菱や神鋼、幡生の鉄道工場、関門トンネルなどは無傷のままそっくり残された。これは下関だけでなく、東京空襲で皇居への攻撃を避けたことなど、全国に共通しており、アメリカの用意周到な計画によるものであった。アメリカは、広島・長崎への原爆投下による日本の単独占領を見越して、全国の都市の民家を冷酷に狙い撃ちする一方で、天皇や財閥などの支配層を抱き込み日本社会の富を収奪する支配構造へと「改革」するうえで必要なものは残したのだ。
戦後、歴代の売国政府はそのアメリカに付き従って、憲法を踏みにじりアメリカの戦争のために犬馬の労をとってきた。そのような屈辱のうえに今、「下関が地盤」と口にする安倍晋三は日本の若者をアメリカの戦争の肉弾にし、日本を核ミサイルの標的にする「安保法制」の強行に躍起になっている。下関は朝鮮有事に対応する重要港湾に指定され、米艦船や自衛艦がわがもの顔で寄港するようになり、知らぬ間に軍港化が進んでいることも無関係ではない。国会の安保法制ともかかわって、郷土を再び焼け野原にさせないためのたたかいが求められている。