いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

第18回広島「原爆と戦争展」開幕 広島市民に基盤を持った独自の展示

 広島市中区袋町の合人社ウェンディひと・まちプラザで7月28日、第18回広島「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる長崎の会)が開幕した。市内各地に掲示されたポスターや学校で配布されたチラシを見て被爆者や被爆二世、若い世代をはじめとする現役世代や親子連れが参観し、第二次大戦や被爆地の体験を全国・世界に発信していくこと、新たな戦争に立ち向かうための問題意識が語り合われている。とくに若い世代の参観が目立ち、会場で被爆者から体験を聞き、戦争反対と核兵器廃絶のための切実な思いに応えて行動する機運が高まっている。

 

被爆者から被爆体験を聞く参観者

パネルを見る参観者

 7月28日午前10時からおこなわれた開幕式には、原爆展を成功させる広島の会の被爆者や会員、スタッフの大学生などが参加し、会期を通じて全国・世界の人人に広島の思いを発信する決意を語った。

 

 初めに挨拶に立った眞木淳治会長代行は「これまで先輩方が開いてこられた道をたどりながら、若い方方の力を借りて今回の開催までたどりつけたことに心から感謝する。今日本の情勢は北朝鮮や中国の脅威を煽りながら軍備増強を図ることのくり返しになっている。最近ではアメリカとイランの対立のなかで、日本に対して有志連合への参加が働きかけられるなど、心配なことが増えている。日本政府は国連で核兵器禁止条約の反対に回るなど、アメリカの意向を考慮した情けない動きをしている。イージス・アショアの山口と秋田への配備計画や、アメリカの戦闘機大量購入、駆逐艦の空母化が図られるなど、長年、戦争をしない国として世界から信頼を得てきた日本が戦争できる国にされようとしている。だからこそ原爆と戦争展を多くの方方に見てもらい、世論を喚起するチャンスともいえる」とのべた。

 

 また「最近、被爆体験を聞いた市内や他県の子どもたちから寄せられる感想文からは、児童たちの意識が変わり、平和のための具体的な意見がたくさん記されるようになった。これは何年もかけてとりくんできた活動の成果だ。11日間の展示期間のなかで、会員をはじめみなさんに会場に足を運んでもらい、多くの人人と語り合ってもらいたい。“被爆者がここまで生き延び、頑張ってこれたのは、戦争や原爆の悲惨さを思い、これくらいのことで負けてはならないと思いながら踏ん張ってきたからだ”と子どもたちに常常語ってきた。このことを自分自身にもいい聞かせながら頑張りたい」と力強く決意をのべた。

 

 当時3歳で被爆した男性被爆者は「2・5㌔地点で被爆し、家も壊れたが、幸い助かった。当時のことは記憶はなくても体が覚えている。12歳で体に変調が起き、15歳の時、初めての検診で血液の病で即入院となり、それからは精神的に仮死状態で、どんなに言葉をかけられても“もう死ぬんだ”としか考えられなかった。25歳のときに病気が再発し、当時49㌔まで体重は減っていた。しかし、そこから立ち直り、こうして元気に活動できている。強く感じることは、戦争とはどれほど惨めなものなのか、もしあの戦争がなく、基地や軍事兵器がなかったら、この国はもっと豊かになるはずだということだ。私がこういうことを訴えていくために会に出会えたことを幸せに思う。私たちに残された時間は少ないが、今からできることは戦争の苦しみや生きる喜びを多くの人に伝えることであり、若い世代に継承してくことがわれわれの責務だ」と語った。

 

 期間中、展示スタッフとして活動する女子大学生は「この活動に参加するなかで、原爆や戦争をただの歴史の一部として頭で記憶するだけではなく、心で感じて自分ができることを最大限生かして貢献していきたい。感じたことや学んだことを同世代をはじめたくさんの人人と話し合い、これからどうしていけばいいのか解決方向を見出していきたい。そのなかで自分の考えをどんどん発信していきたい」と抱負をのべた。

 

若い世代が多く参観 体験継承の意欲高まる

 

 会場には連日、被爆者、戦争体験者、親子連れなど、県内外、世界各国から世代、人種を問わず多くの参観者が足を運び、パネルを参観して被爆者と熱のこもった交流をおこなっている。また、被爆者の思いを引き継ぎ、被爆二世やその家族たちのなかで体験継承の意欲が強まっており、その思いを同展に託す人が増えている。

 

 10歳で広島市郊外の志和口に家族で疎開していたという80代の女性は「原爆投下後、志和口にはその日のうちに芸備線で負傷者が次次に運ばれてきて、小学校が療養所になった。母がそこで看病していたのでついて行くと、体半分がやけどで皮膚がズルズルに溶けて垂れ下がり、目が飛び出した人がいた。あまりの衝撃でその光景を鮮明に覚えている。疎開先では原爆のことをみなが“ピカドン”“ずる剥け”と呼んでいた」と当時の体験を語った。

 

 また父親が出征先のニューギニアから生還したことを明かし、「父は戦地でトカゲやミミズを食べていたと話していたが、それ以外のことはほとんど語らなかった。パネルで兵士たちの体験談を読み、戦地では食料もなく、ほとんどが餓死や病死だったことを知り、語らなかった父の胸中を想像した。父は手記を遺しているが、知ることが怖くて今まで一度も読んだことがない。今日帰って手記や写真を見返してみたい。可能ならこの会場で資料として使ってほしい」と資料提供を申し出た。

 

 当時小学6年生で安佐南区伴に疎開していた男性は、学徒動員で作業中だった中学生の兄の遺体が見つからず、父親が何日間も市内に通って捜し歩いていたことを明かした。父親が遺した手記とともに、自身も当時の体験を手記に残して提供したいと語った。

 

 全国各地から訪れた参観者たちは、原爆投下にとどまらず、日本全国で終戦間際まで続いた大規模な空襲で多くの市民が犠牲になったことや、中国大陸や南方の戦地での兵士たちの体験等、これまで知る機会がなかった戦争の実態に強い衝撃を語っている。

 

 市内から訪れた70代の被爆二世の女性は「当時、両親が可部に住んでおり、父は爆心地に近い住吉町にいた母の妹を探しに行って入市被爆した。母の妹は目にガラスが突き刺さって失明したが、一命はとりとめた。私の実家は農家で、体に斑点状の内出血のような赤紫のアザがある人たちが野菜をもらいに来ていた。子どもの私は“病気がうつる”といってからかったりしたこともあったが、それが原爆による病気であることは当時はまったく知らなかった。それほど原爆の実相は後後まで知らされていなかった。今の日本は国際社会に対して核廃絶のための強い意思表示ができていない。広島出身の外務大臣がいながら日本政府は核兵器禁止条約に対して反対に回り、その政府に頭が上がらず何もいえない広島市長には恥ずかしい限りだ。“戦争だけは絶対に許さない”という立場を貫く政治家がおらず、“戦争をすればいい”などという者まで出てきている。真っ先に戦争の犠牲になるのは弱い一般市民や戦地に狩り出された兵士たちだ。二度と戦争を許さないという気概を国民が示さないといけない」と熱を込めて語った。

 

 岩国市から訪れた50代の男性は「岩国空襲は終戦前日の8月14日、岩国駅周辺の地面がボコボコになるほどの密度で爆弾や焼夷弾が落とされた。私の親は柱島出身で空襲にあったことを話していたが、このパネルでより詳しく知ることができた」と話した。柱島では7月24日に空襲があり、黒島、端島など何の軍事施設もなく、女子ども、年寄りしかいない小島まで空襲した。黒島では小学生たちが逃げた防空壕も爆撃し、さらに後日、グラマンによる機銃掃射までおこなったという。

 

 男性は「市民を無残に殺して奪った土地に米軍は基地を置き、岩国に居座り続け、増強に次ぐ増強をおこなっている。厚木基地から空母艦載機部隊が移転し、本格的に東アジアを睨んだ体制づくりが強化されているが、有事のさいには岩国や呉など広島湾周辺が真っ先に標的にされる。こんな危険を子や孫の代まで持ちこしていいわけがない。岩国市長は政府のいいなりで、基地の交付金で地元業者に物をいわせぬようにしているが、日本全国で岩国と同じような政治がまかり通っている。本当の平和を求めるならば、戦争反対を正面から訴える以外にないし、平和を次世代に引き継いでいくために被爆・戦争体験を語り継いでいかなければならない」と語った。

 

 そのほか積極的に被爆者から体験を学ぶ親子連れや高校生、大学生の姿も目立っている。

 

 全国各地にいる外国人留学生を集めて広島の原爆関連施設を案内している広島市内の女子大学生は、被爆者から体験を聞き、「実際に体験されている方がくぐってきた経験が目に浮かび、涙が出てきた。思い出したくない辛い経験なのに話してくれた思いを受け止め、引き継ぎ、私たちの世代が行動に移していきたい」と語り、8月4日に会場内でおこなわれる山口、広島、岡山の学生交流会への参加を申し出た。

 

 また被爆体験を記録するとりくみをおこなっている市内の女子高校生グループが会場を訪れ、被爆体験証言の聞きとりを申し込んでいった。

 

海外からの参観者 初めて知る事実に驚き

 

 海外からの参観者も例年に増して多く、スタッフの通訳を介して被爆体験を真剣に学んでいる。

 

 県内の大学に通うコスタリカ人の男性留学生は「コスタリカでは原爆について“被爆した人は痛みを感じることなく消えた”と誤った認識も耳にしてきたし、資料もガレキの写真ばかりで実際に人人がどのような被害を受けたのかを見ることはなかった。昨年、大学で展示を見たときに知った悲惨な真実に衝撃を受けた。学んだことを母国で発表したときには、多くの人人が衝撃を受けていた。世界中で原爆について間違った捉え方がある。今は“原爆投下は戦争終結に必要だった”という定説はアメリカが流してきたウソだという認識が広がっているが、それでも“原爆は必要だった”という見解もまだある。この惨状を生身で体験した被爆者の声をもっと広く伝えるべきだ」と語り、会期中にスペイン人記者の通訳として再訪することを約束した。

 

 フランスから訪れた20代の男性は、長時間かけて熱心にパネル英訳を読み、「戦地での兵士の体験や空襲や原爆にあった市民の体験が、その人たちの目線で描かれており、ヨーロッパでは語られない事実を初めて知ることができた。広島だけではなく、日本中で何が起きていたのか、フランスで学んできたつもりだったが、それ以上に悲惨だった。アメリカが原爆によってなにを生み出したのか、非人道的な行為によってどれほどの人人を傷つけたのかについて認識がなかったことを恥ずかしく思う。このような事実を時間とともに忘れ去るのではなく、今を生きる世界中の人人が知るべきだ」と記した。

 

 広島「原爆と戦争展」は、8月7日まで開催される。また、8月1~6日まで、平和公園の原爆の子の像横で同展の縮小パネルを使った街頭展示が連日おこなわれている。

 

【関連資料】

原爆と戦争展パネル冊子

A-bomb Survivors and War Victims Speak Out (英語版)

 

平和公園でも街頭展示が連日おこなわれている。多くの外国人が熱心に参観している

関連する記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。