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広島「原爆と戦争展」開幕 戦争と戦後70年の真実直視 安保法制に切実な問題意識

 広島市中区の広島県民文化センターで1日、第14回広島「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会、同長崎の会、下関原爆被害者の会)が開幕した。被爆70年目の節目を迎える時期に安倍政府がアメリカとともに武力行使に突き進む安保法案の成立を急ぐという、すべての戦争犠牲者と国民世論への挑戦ともいえる暴挙に乗り出すなかで、被爆地広島には全国、世界中から多くの人人が集まり、広島市民が主催する同展に強い共感を示している。第二次大戦の真実、とくに無謀な中国侵略に始まり、全国空襲、沖縄戦、二十数万市民を焼き殺した原爆投下によるアメリカの単独占領から続く戦後の対米従属構造がもたらした現代の日本社会を直視し、二度と戦争をくり返させない国民的な運動を広げていく機運が世代をこえて盛り上がっている。
 
 8・6集会参加すると高校生

 初日の午前10時からおこなわれた開幕式では初めに広島の会の高橋匡会長代行が挨拶。「戦争法案の議決が気になるが、二度と戦争は起こしてはならないというのが被爆者、戦争体験者の願いだ。政府はこれをまったくかえりみず、議席数だけにものをいわせて暴走している。“気がついたら戦争になっていた”というあの時代をくり返してはならない。われわれは、本来の任務である原爆と戦争の現実を次世代に語り継いでいく本命をまっとうし、1人でも2人でも多くの人に真実を伝えていきたい。踏みとどまってはおれず、前進するのみだ」と呼びかけた。
 続いて、共催団体である下関原爆被害者の会の大松妙子会長、原爆展を成功させる長崎の会の河邊聖子会長代行のメッセージが代読され、参加者が抱負を語った。
 市内の学校や地域で体験を語ってきた被爆者の眞木淳治氏は、「今年もさまざまなところで体験を語ってきたが、今年はとくに子どもの意識が変わっている。ある中学では3年生が“ぜひ安保法制について話してほしい”といい、先生が黒板に“安保法制”と書いて要望されるなど、現在の情勢に強い危機感をみんなが感じている。安倍首相は国会に先立って、アメリカ議会で勝手に約束をして帰った。絶対に戦争にいくことのない一部の人間が無理矢理に進めることをなんとしても阻止しなければならない。孫たちの世代を私たちと同じ目にあわせることはできない。この思いを強く訴えていきたい」と力強くのべた。
 11歳で被爆した中野秀子氏は、建物疎開に出ていた父親が原爆症で寝たきりになり、医者に向かって「家族を残して死ぬことはできん。助けてくれ」と泣きながら懇願していたが、40度の高熱で亡くなり、戦後は祖母と母が苦労して自分たち3人姉妹を育ててくれたことを語り、「戦争が悪い。“神風が吹く”といって始め、日本中の人人を不幸にした戦争を絶対にくり返してはいけない」と強調した。
 スタッフとして参加する男子学生は、「つい最近まで平和について考える機会が少なかったが、実際に被爆者の話を聞いて70年前の真実とその思いを聞き、生の体験が聞ける最後の世代といわれる自分たちがそれを受け継いで行動しなければいけないと感じ始めた。みなさんとともに頑張りたい」とのべた。
 同じく女子大学生は、「広島出身で平和学習を受けてきたが、展示を見て、戦争でのアメリカの策略や、40代の家族持ちまで戦地にかり出されたことなど知らないことが多くあることを知った。戦争当時の状況をオブラートに包まれずに直に知ることができた。この活動を通じて自分自身がまず学習してこれからにつなげていきたい」と抱負を語った。
 会場では、広島市民をはじめ、東京、神奈川、愛知、大阪など全国各地から親子連れ、旅行者、会社員、学生、高校生、ガールスカウトのグループ、フランスやオーストラリアからも家族連れなどが訪れて、熱を込めて語る被爆者の話に聞き入った。

 年代こえ鋭い意識 対米従属社会の打破を

 満州引揚者の友人とともに参観した婦人被爆者は、「本川小学校を卒業したばかりだった兄は、13歳で土橋に建物疎開作業に行ったまま帰ってこなかった。父がリアカーを持って何日も探して、己斐小学校の校庭に並べられた死体の中から背中に大穴が空いた兄の遺体を発見した。“まだ死体が見つかっただけよかった”と父はいっていたが、今でも悔しさがこみ上げる。宮島街道(現在の国道二号線)沿いの浜辺には、引き潮時に死体を山のように積み上げて火が付けられ、満ち潮とともに遺骨はみんな海へ流れていった。動員学徒の大半はいまだに遺骨も見つからない子どもばかりだ」と怒りをあらわにした。
 「毎年おこなわれる動員学徒の慰霊祭には、腰を二つ折りにした100歳になる遺族の母親が這うようにして参拝されていた。“まだ息子の骨を受け取っていない。命のある限り参加するんだ…”と絞り出すような声でいわれていたのが忘れられない。安倍さんはそんな国民の苦しみを知っているのか。また日本の若者をアメリカのために戦地に送り、今度は私たちの孫世代が危険にさらされようとしている。私たちは絶対に反対だ」と力をこめた。
 夫婦で訪れた被爆二世の婦人は、「見る度に怒りがこみ上げてくる。戦争終結に必要のない原爆を民間人の上に投げつけておいて、米軍の爆撃司令官は“1軒1軒が軍需工場だった民家を焼き払って何が悪い”といっている。今も考え方の本質が変わっていない。なぜ日本の政治家もメディアもこの犯罪を世界に訴えないのか。ベトナムでもイラク、アフガンでも同じことをくり返して恨まれている、アメリカの後方支援などするから日本は危険になる」「“(米軍は)日本から出て行け”といえる政治家がいないなら、広島から世界中に訴えないといけない」と強調した。
 司法書士を目指している40代の男性は、「今までは安保法制について“日本が危機になればしかたがないのでは…”と思っていたが、まったく違うと思った。前の戦争も満州で引き起こした事変を発端にして“自衛権”を掲げて全面的な戦争に突入し、最後は悲惨な結果をもたらすまでいった。集団的自衛権もアメリカと一緒に海外に出向いていくもので、国民の目の届かないところで敵を増やし、国民が気がついたときには後戻りできない状況にされると思う。戦時体制になれば人権もなにもない。法律を学ぶものとして無視できない事態であり、自分も反対していきたい」と話した。
 小学生の子どもと一緒に被爆者の体験を聞いた母親は、「戦時中の体験者の苦しみを少しでも知ることが戦後世代のつとめだと思う。三菱が狙われなかったことや、天皇が平和主義者というのも後付けで、実際の戦争犯罪者が野放しにされ、大量殺人をやったアメリカもまったく裁かれず、すべて国民に責任をなすりつけている。“アメリカの国力が落ちているから日本は危険”というが、なぜ国論が二分する問題をこんなに早急に決めるのか理解できない。若い人も安保問題を知るには、まず直に戦争体験を学ぶべきだと思う」と話した。
 宮崎県から来た教育歴史の大学教授は、父親が戦時中に青年学校の教師として満蒙開拓団や海軍へ生徒を送り出し、戦後はその罪悪感に苦しんでいたことを語り、「安保法制に限らず、TPP、基地問題など、すべて一貫して常にアメリカの顔色をうかがい、なりふり構わず強行するような体制だ。だからこそたくさんの人人が立ち上がって声を上げるようになっている。このような行動を戦争反対の政治的な勢力に発展させないといけない」と激しく語った。
 被爆者から長時間体験を聞いた男子高校生は、「被爆している祖父とも安保法制について話になる。自衛隊は専守防衛の部隊なのに、アメリカなど他国のために海外に出向いて武力を使うのは筋が通らない。アメリカ以外の世界の信用を裏切ることになるし、国土を守るどころか、国土が攻撃される原因をつくるだけだと思う。落とす必要のない原爆を落として日本人を実験台にし、イラクでも劣化ウラン弾を使ったアメリカの殺戮がなぜ正義なのか。沖縄でも火炎放射器で民間人を焼いておいて、なにが“日本を守る”なのか」と思いをぶつけた。
 さらに、「憲法九条で戦争放棄といいながら、安保条約ではアメリカとの軍事同盟を定めていること自体が大矛盾で、憲法を守るだけでなく、安保条約を廃棄しないと根本的な解決にならないと思う。安倍首相も先にアメリカで“夏までに成立させる”と約束していたが、民主党も“国外移設”といった米軍基地を国内移設にした。どの政治家も選挙のときだけ国民には大きなことをいいながら、本当にやることが小さい。先生も一時間の授業を使って安保法制の問題点を話してくれたが、自分たちが成人したころに戦争にならないように考えて行動したい」とのべ、八・六集会に参加する意欲をのべた。

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