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長崎「原爆と戦争展」の取り組みを開始 戦争くり返させぬ意志を被爆地から全国へ発信

 今年6月下旬に長崎市で開催される第15回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、同広島の会、下関原爆被害者の会)のとりくみがはじまった。被爆74年目の夏を迎えるなかで、今年の「原爆と戦争展」は被爆や戦争の体験を若い世代に継承し、全国へ発信する長崎市民のとりくみとして期待を集め、普段は表に出ることのない被爆市民の本当の思いを形にするため多くの協力が寄せられている。原爆展を成功させる長崎の会は19日、長崎市中央公民館で主催者会議を開き、同展開催に向けた意気込みを交流し、1カ月後の開幕に向けて全市的な宣伝を広げていくことを確認した。

 

主催者会議で論議する被爆者たち(19日、長崎市)

 主催者会議には被爆者や戦争体験者、主婦などが参加し、自身の体験やとりくみへの抱負を語りあった。はじめに長崎の会の中里喜美子氏が挨拶し、「長崎での原爆展も今年で15回目を迎えた。当初に比べて被爆者の数は減っていくが、残った自分たちがその思いも背負って次世代に伝えていかなければいけないと思う。若い人たちに伝わるように、命のある限り頑張っていきたい」とのべた。


 つづいて、広島の会会長代行の眞木淳治氏のメッセージが紹介された。眞木氏は「平成から令和へと元号がかわっても原爆の被害は決して忘れてはならない。あの惨禍を二度とくり返してはならない。日本国内では、安保法制の強行採決にはじまり、憲法にまで手を加え、戦争をしない国から戦争をする国へと変貌しつつある。これは被爆者や国民の願いとはかけ離れた憂うべきことだ」とのべ、広島でも「原爆と戦争展」を柱に、小中学校への平和学習や修学旅行生への被爆体験証言など旺盛に活動をくり広げていく決意をのべた。


 次に、原爆展事務局が開催要項ととりくみの経過を概略以下のように報告した。


 被爆から74年目の夏を迎えるなかで、昨年までに原爆死没者名簿に登録された犠牲者は、長崎で17万9226人、広島では31万4118人にのぼる。この人類史上類を見ない原子爆弾の惨禍と体験者の思いを次世代に語り継ぎ、内外に発信していく長崎市民のとりくみは、全国の平和を希求する人人や核兵器廃絶を求める世界的な世論を牽引するうえでも欠かすことができないものとして同展開催に期待が集まっている。


 昨年の賛同者約300人に今年の案内を送り、すでに被爆者、被爆二世、自治会長や商店主、病院、寺、大学生など数十人から返信が届いている。被爆当時の惨状を描いた絵や体験記、大事に保管してきた遺品など新たな展示物も提供されている。香焼島の川南造船所で被爆した80代の男性被爆者は、当時見た原子雲や、実家があった御船蔵町から臨む焼け野原の長崎市内の惨状、爆心地の松山町で見た死者の山などを描いた絵数点を今年の原爆と戦争展へ提供することを決めた。「イランや朝鮮半島をめぐる緊張状態も、核大国が原爆使用を正当化して核兵器を弄んできた結果であり、それに被爆国である日本まで巻き込まれようとしている。瞬時に7万人余の命が奪われた被爆の経験をなかったことにしてはならない。私たちがいなくなっても子や孫に同じ経験をさせるわけにはいかない」と思いを語っている。また最近、「北方領土は戦争でとり返すべきでは?」などと公然と発言する政治家があらわれていることにも「戦争の苦しみを知らない政治のなれの果て」として市民の強い憤激を集めており、被爆地から真実を発信していくことの重要性が強く語られている。


 長崎では2005年に長崎西洋館で開催して以来、戦地や空襲、沖縄戦など第二次大戦の全経験を含む「原爆と戦争展」が14年間にわたっておこなわれ、毎年1000人近い人人が参観する行事として定着してきた。被爆者の平均年齢が82歳をこえ、直接の戦争体験者が減少するなかで、若い世代への働きかけを強め、世代をこえた大交流の場にするため、全市的な宣伝を広げ、世論を喚起していく。

 

国会議員の戦争肯定発言に怒り

 

 87歳の男性被爆者は「13歳の時に爆心地から4㌔離れた本河内で被爆した。そのときの閃光や爆風の凄まじさはいまも脳裏に焼き付いている。私は満州事変の翌年に生まれ、それ以降の13年間は兵隊になるための教育を受けてきた。勉強はほとんどなく、戦争とはなにかもわからぬまま銃剣を持たされて軍事教練を受け、食料調達のために開墾してイモを植えさせられていた。戦後は教員として、子どもたちを戦争の鉄砲玉にしてはならないという思いで教鞭を執ってきた」とのべ、「体験を子どもたちに継承していく一助に」と教員時代に子どもたちが原爆について調べて作った壁新聞や教材を展示物として提供することを申し出た。


 女学校1年生(12歳)で被爆した女性は、「当時、1歳だった弟が今年3月にガンで亡くなった。爆心地から数百㍍の大学病院に勤めていた姉は即死し、2、3日してから父と一緒に骨を探しに行ったが、あたり一面焼け野原で見つからない。わずかな手がかりから姉のものと思われる骨を見つけ、父が“家に帰ろうね……”といいながら手にとって骨壺に入れようとするとサラサラと砂のように崩れてしまった。その途上で馬が立ったまま焼け死んでいたり、電車が乗客ごと黒焦げになっていた光景はいまでも忘れられない。これまで家族にしか話してこなかったが、風化させることのないように残していきたいと思う」とのべた。


 叔父が被爆死している女性は「私は戦後世代だが、あの日、朝ごはんを食べて長崎市内に働きに出たまま20歳で帰らぬ人となった叔父を祖母はずっと待ち続けていた。8月9日になるとご飯も食べずにいつも一日中仏壇の前に座っていた祖母の姿を思い出す。遺骨はなく、形見のベルトをお墓に入れている。祖母は原爆の話はほとんど口にしなかったが、親孝行だった叔父は“お国のために死んだんだ…”といっていた。そんな苦しみに耐えながら国民みんなが一生懸命に再建してきた日本が、最近は戦争の方向に向かっている気がしてならない。戦争は災害ではなく、政治家がはじめたことだ。これまで他人事のように思ってきたが、子や孫たちの時代には戦争が起きてもおかしくないと感じている。もっと戦中戦後の経験を知り、少しでも後世に伝える役に立ちたい」とのべた。


 別の女性は、知人が家族4人を原爆で亡くしていることを明かし、「先日、30代の政治家が“北方領土を戦争でとり返したら”と発言したのを聞いて、張り倒してやりたいくらいに腹が立った。日本人として最も恥ずべき発言だ。だが、いまの政治を見ているとあれは氷山の一角ではないかと感じる。政治の世界では、あのような感覚が蔓延しているからこそ出た言葉ではないか。国民のことを何一つ考えていない証だ」とのべた。
 別の被爆者たちからも「あのような言葉を戦争体験者を前にしていえる神経が恐ろしいことだ」「国会議員として勉強が足りなさすぎる」「最近の国のやっていることをみると、単純に“一人の政治家の失言”として受け流すことができない。現にロシアや北朝鮮などとの関係がさらに悪化している。またミサイル避難訓練をやらなければならなくなる状況を政治家がみずから作っている」と口口に問題意識が語られた。


 2歳で被爆した女性は「当時の記憶はないが、飛行機の音や真っ赤な空がトラウマのように脳裏に残っている。母が私を背負って被爆者の救援にあたり、私もその後、髪が抜けて生死の淵をさまよった。従姉妹は三菱製鋼所で被爆して下痢や脱毛症状で苦しみ、回復はしたものの生涯独身だった。大村の海軍病院で看護学生をしていた姉も、救援列車で運ばれてくる被爆者を救護し、50代で脳腫瘍になり、いまも病気とたたかっている。放射能の苦しみはいまも続いている。その思いを自分が伝えなければいけないと感じている」とのべた。「被爆後、大村湾沿いに諫早、大村、川棚へと被爆者を運んだ救援列車には約3500人が乗ったが、その半数が途中で亡くなったという。その歴史はあまり伝えられていない。自分なりに調べたものや資料を展示会に寄贈したい」とのべた。


 6歳で被爆した女性は、被爆体験を紙芝居で伝える意欲を語り、「当時は爆心地から1・4㌔の銭座町の自宅にいたが、母親や妹のおかげで紙一重で命が助かった。生かされたものとして亡くなった人の分も頑張りたい」と会場運営を担う意気込みをのべた。
 居住区や自治会、公共施設、商店などにポスターやチラシによる宣伝を広げ、賛同協力者を幅広く募っていくことや、学校や児童クラブなどにも積極的に参観を呼びかけていくことを確認し、6月中旬に2回目の主催者会議を開催することを決めて散会した。

 

【第15回 長崎「原爆と戦争展」の要項】
 会期 2019年6月26日(水)~7月1日(月)午前10時~午後7時、最終日は午後5時まで
 会場 長崎市民会館 地下1階展示ホール

 展示内容 パネル「第二次世界大戦の真実」「原爆と峠三吉の詩」(長崎、広島の被爆写真、原爆詩人・峠三吉の詩、子どもたちの詩)「沖縄戦の真実」「きけわだつみのこえ」「全国空襲の記録」「語れなかった東京大空襲の真実」など約150点。長崎市内の被爆遺構と慰霊碑の紹介、長崎復興の記録、被爆資料、遺品、体験記、絵など市民提供資料
 被爆・戦争体験を語るコーナー
 後援 長崎市、長崎県
 入場無料

 

市民からは強い期待 市内での宣伝活動 

 

市民の協力で店内にポスターを掲示するスタッフ(19日、長崎市)

 下関原爆展事務局は19日、6月26日から7月1日まで長崎市民会館でおこなわれる第15回長崎「原爆と戦争展」の宣伝活動を長崎市内で開始した。この日は展示会場周辺の市内中心部や商店街、観光地等でポスター掲示とチラシ配布をおこなった。毎年継続してとりくんでいる同展に対して、長崎市民から多くの賛同と協力が寄せられた。


 宣伝行動は市民が集まる商店街や寺町の寺院、中華街周辺の観光地でおこない、ポスター約300枚を掲示し、チラシ約3300枚を配布した。毎年おこなう恒例行事として認知度も高く、多くの市民が快く宣伝に協力し、店頭や自治会掲示板に同店開催を知らせるポスターを掲示した。


 商店主や市民のなかには被爆者世代も少なくなく、ありのままの戦争・被爆体験の真実を長年にわたって伝え続けてきた同展への期待を込め、自身の体験を語り、賛同を示していた。


 寺町の80代の男性被爆者は「中学2年のときに寺町の実家で被爆した。朝、空襲警報が鳴って学校から自宅へ帰った直後にB29が上空を飛んでいるところを目撃して表へ出た。何か白い物体を落としたと思った瞬間、オレンジ色ともピンク色ともいえぬ強烈な閃光に包まれた。その後の瞬間の出来事ははっきりと覚えていないが、山手側に避難したときに見下ろした長崎の街の光景はまさに地獄絵図で火の海に包まれていた」と語った。
 さらに 「父親は警防団に所属しており、翌日から遺体の収容のため爆心地へ入った。死体と思って黒焦げになった体を持ち上げたら自分の手の中でその人が動いていたこと、手を持つと皮ごとズルッと剥けたことなど、この世のものとは思えぬ惨状を目にしたという。父親はそのことを私に隠さず語ったが、私はそれを聞いて一週間以上何も食べることができなくなってしまった。だが、今になるとあのとき語ってくれた父親の“こんなことを二度とくり返してはならない”という気持ちが少し分かる気がする。その父親も原爆投下から5年後に急性白血病で死んだ。増血剤なども投与したが、当時の医療ではどうしようもなかったと思う。昨年初めてこの展示を見に行った。長崎市内でもだんだん原爆のことに触れない空気があるなかで、何年も同じように地道に体験継承を続けていると知り、応援したいと思った」と語った。


 80代の男性被爆者は「11歳のときに被爆した。若くして原爆の後遺症で体を悪くし、結婚もできないまま独り身で生活してきた。まわりの人たちの助けがあってこれまで生活できている。自分と同じように被爆後から死ぬまで苦しんでいる市民が大勢いる。もう二度と同じ苦しみを後世に味わわせてはならない。原爆の悲惨さをいつまでも伝え続けていかなければならない」と話し、会期中の参観を約束し、ポスター掲示への協力を申し出た。


 地域の自治会関係者からも掲示板へのポスター掲示を快く引き受け、チラシの回覧や全戸配布をおこなうなど宣伝活動への協力が広がっている。

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