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東京で本紙号外に強い共感 ほとばしる東京空襲の体験 蘇る計画的殺戮への怒り

 本紙記者と原爆展キャラバン隊員で構成する原爆展全国キャラバン隊は、12日から15日までの4日間、東京都江東区の隅田川、小名木川に面した森下、清澄、白河、そして寺院などが多い三好、深川、門前仲町などの地域、区役所のある東陽、南砂などの地域に「語れなかった東京大空襲の真実」号外1万3000部を配布した。各地で号外を読んだ区民から壮絶な体験が語られ、「自分の体験したこととまったく同じ内容だ」「アメリカは空襲でなにを残すのか、なにをつぶすのかすべて選別したうえでやっていた。アメリカの非道なやり方に対してものすごい思いがある」など、痛切な体験が語られた。そして多くの人人が「山口県下関市から東京に来て、今までだれもやらなかった東京大空襲の真実を知らせてくれてありがたい」「本当に感謝している」と語り、号外配布を喜んだ。
 
 江東区で1万3000部配布

 もっとも大きな被害を受けた江東区(旧深川区)では、大勢の人が焼け死んだり、あるいは窒息死するなど、ちりぢりバラバラになり、一家全滅した家庭が多い。子どもの多くが疎開していたこと、生き残った人がわずかだったことから現在の江東区に住んでいる空襲体験者は数少なく、生き残った人人も多くが亡くなっていることがあちこちで語られていた。さらに江東区には、木場など製材所が多くある地域があり、大空襲による炎が燃え移って、被害を拡大させたことも語られていた。また空襲時に他県に疎開していた多くの人人が、群馬や栃木、埼玉から東京に焼夷弾が落ちる様子がはっきりと見えたこと、空を焦がす真っ赤な炎が見えたことを鮮明な記憶として語っていた。


 江東区で空襲を経験した体験者たちは、「焼夷弾というよりも火の粉を含んだ熱風がものすごかった」と語っている。その熱風が火を起こし、炎がさらなる熱風を起こす。「生木が火を噴き、綿入れの防空ずきんを被って逃げ惑う人人が火だるまになり、それは地獄のような光景だった」と語っていた。清澄地区では、炎から逃げて清澄庭園の池に大勢の人が飛び込み首まで浸かって助かった人人も多い。しかしそこでも熱風で頭を焼かれたり、水温が低くあまりの冷たさにショック死した人もいた。


 江東区清澄に住む80代の男性は、12歳で大空襲を経験した体験を語った。同級生が集団疎開で新潟の西蒲原に疎開するなか、男性の家族は縁故疎開が決まって清澄にとどまっていたことを語った。


 3月10日の大空襲について、「あの晩のことは鮮明に覚えている。夜中の11時30分ごろ、みんなが寝ようとしたときのことだった。突然ドカーンという音で飛び上がった。その前に警戒警報は解除されていた」と語った。「薬莢をつくっていた場所に一発目の焼夷弾が落ち、瞬く間に深川は炎に包まれた。火の粉を含んだ熱風が吹き荒れた。家族と一緒に隅田川近くのセメントの倉庫まで逃げたが、そこも危なくなったので清洲橋に逃げて夜を明かした」と惨状を語った。


 翌朝になって男性が清澄に戻ってみると、自宅は跡形もなく焼け、炭のように黒焦げになった死体が町中にごろごろ転がっており、小名木川にはおびただしい数の死体が重なっていた。最後まで消火や避難指示にあたっていた警防団の人たちが臨川寺(清澄)で重なりあって死んでいた。


 疎開先から卒業式のために帰ってきたがために亡くなった子どももずいぶんおり、疎開先で生き残っても家族を失い孤児となり、過酷な環境でみなが生きてきたことを語った。多くの人人が空襲で焼け出され、男性の自宅のある区域に戦後戻って住んだのはわずか三軒で、あとの人は元の家には戻ってこなかった。


 男性はこのような大空襲がまったく公にならないことに、「広島や長崎の原爆、そして東日本大震災がこれほど大大的にとりあげられるのに、東京大空襲についてはまったく出ない。なぜかと疑問に思ってきた」といった。本紙号外の空襲での消失地域と残存施設の図を見ながら、「そういえば茅場町の証券会社も焼け残っていた。風の向きだったのか、たまたまなのかと思ってきたがそういうことだったのか…。東京では、他都市のような爆弾はほとんど落とされず、常に焼夷弾での空襲だったとも聞いた。焼夷弾ならコンクリートの建物は残るが木造の民家はひとたまりもなかった」と語った。


 同じく、清澄地区で七歳のときに空襲を経験した男性は、「清澄庭園の池に逃げて首まで浸かって生き延びた」と語った。


 そして、「なぜ体験者である自分たちも含めて、こんなに大空襲のことが表沙汰にならないのか。慰霊碑もなく、大空襲の犠牲者は、関東大震災の犠牲者と同じ場所に入れられている。考えれば考えるほどおかしいと思っていた。今回号外を読んで深川図書館に行き、初めてあのように空襲の資料があることを知った。しかも資料室にはカギがかかっていて、図書館の人にいわなければ見ることができない状況だ。こんなことでは都民が知ることなどできるわけがない。大空襲があった地のこんなすぐ近くに住んできたが、この歳になって本当に初めて知ることだった」と衝撃を語った。


 標的にされた市民 野蛮な戦争繰返させぬ



 森下に住む70代の女性は、号外を読んで自身の体験が沸沸と蘇ってきたことを語った。
 「私は当時5歳で、墨田区太平に住んでいた。父は海軍にとられていたが、ちょうど軍艦が沈められて帰って来ていたときだった。そこで空襲にあい、父親の背中におぶわれて焼夷弾がものすごく落とされるなかを逃げたことは鮮明に覚えている。逃げる途中であちこちで人が死んでいくのを間近で見た。隅田川の川岸まで逃げて奇跡的に助かった。いくら五歳でもこのことは一生忘れられないものだ」と痛切な思いを語った。


 そしてどの家も防空壕を家の近くに掘っていたが、防空壕に逃げ込んだ人はほとんどが焼夷弾の直撃を受けて死んだこと、集団疎開をしていた当時6年生の子どもたちが中学の試験で帰っていたさいにたくさん死んだことを語り、「毎年3月10日には横網の慰霊堂にお参りに行っている。このたびはこの号外を読み、空襲のときの状況と、戦後すべて焼けてしまったなかで、田舎の親せきの家を頼って苦労したことを思い出した。山口県から来てこのように東京大空襲の号外を配る活動をしてもらって本当に感謝している」と目頭を押さえながら語った。


 深川に住む年配の男性は、当時小学校3年生で佃島に住んでいたこと、空襲のときは静岡に疎開していたことを語った。そして佃島はまったくの無傷であり、米軍は空襲のさい場所を狙って空襲をしていたとのべた。


 「勝鬨橋や永代橋は爆撃の目標にされなかった。米軍は日本のことをすべて分かっており、なにをつぶすのか、なにを残すのかははっきり調べたうえで空襲している。アメリカの非道なやり方に対してものすごい思いがある」と強く語った。


 そして戦後、焼け野原になった町を進駐軍が闊歩し、聖路加病院などは米軍でいっぱいだったこと、そこに商売するための女性が集まる状況だったことを語り、「戦後は食うや食わずで大変な時代を過ごしてきた」と当時を振り返って語った。


 森下で美容院を営む女性は、母親が空襲を経験し、小名木川沿いの工場へ逃げた体験をよく語っているとのべた。「母は父親や母親とはぐれてしまい、近所の人についていって助かったと話していた。また母の父母も奇跡的に助かっており、戦後すべて焼け野原になったなかで各地を転転とし大変だったそうだ。つい最近も“逃げ回って大変だった”と口にしていた」と語った。


 また「このような号外を配ってもらって本当にありがたい。ここまでとりあげている新聞は初めてだ。GHQが慰霊碑を建てさせなかったことや丸ノ内の財閥系金融街が丸ごと残されたことは初めて知ることばかりで驚いた。森下5丁目の墓誌建立のことは私もよく知っているが、つくるまで非常に多くの苦労があったと聞いている。下町では後世に残していこうという強い思いがあるが、体験した多くの人がここ数年のあいだに亡くなっており、その体験が語られずに埋もれている。ぜひ体験を掘り起こすこのような活動を頑張ってほしい」と期待を込めた。


 号外を見て「私の兄が空襲で殺されている。私は埼玉県に疎開していたが、翌日に父親と兄を探しに行き、富岡八幡宮のあたりに積み重なった死体の山から、蝋人形のようになった死体をひっくり返しては顔を確認して歩いた。だれがだれだかまったく分からない状態で、本当につらいものだった」(森下、80代男性)、「私の叔母が東京大空襲で亡くなっている。叔母は当時新大橋2丁目辺りに住んでいて、空襲のときは八名川小学校に避難していたが、避難している人がほとんど亡くなった。折り重なった死体が山のようになり、男も女も区別がつかないほどの状況だった。叔母を捜しに行った父は骨を拾うことさえできず、かわりに叔母の夫が大工をしていたので、大工道具の金槌を持ち帰り、墓に入れた。現在の慰霊堂に骨が入っているかどうかもわからず、亡くなっていった叔母の気持ちを考えると、本当に無念でならない」(新大橋、70代婦人)など、体験を語る人が多くいた。


 清澄に住む80代の男性は、「安倍晋三が憎い。フランスのテロやニューヨークの同時多発テロを騒いでいるが、もっとも非道な国はアメリカだ。広島や長崎の原爆もだが、東京も戦争の最前線だ。たった一晩の空襲で10万人もの人を殺すような野蛮な国がアメリカだ。そのアメリカにくっついて他国に恨まれるようなことになぜ進むのか。若者が戦争にかり出される時代がまたやってこようとしている。これは自分の意思など通用しない。そんな時代にまた向かおうとしている。許せるわけがない」と涙を浮かべて激しく語った。

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