いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

広島市安佐南区で原爆と戦争展 鮮明に蘇る被爆体験 戦争阻止に向け世論束ねる

 原爆展を成功させる広島の会(高橋匡会長)は8日から、広島市安佐南区緑井のギャラリーPassage(フジグラン緑井五階)で「原爆と戦争展」を開催している。被爆70年を経て、安倍政府は320万人もの邦人を犠牲にした第2次大戦の反省を清算し、自衛隊の武力参戦を認める安保法制を施行させたが、広島の被爆者の間では「70年で終わりではない。これからが正念場だ」「国民世論を束ねて戦争阻止の大きな力にしよう」と意気込みが高まっている。原爆と戦争展には、親子連れや若い世代が積極的に足を止め、戦争の真実をめぐって世代間の交流を深めるとともに、戦争阻止に向けて問題意識を語り合っている。
 
 各国首脳に核廃絶実行求める

 商業施設内に併設された会場には、買い物に来た親子連れや若い人たちが展示に足を止め時間をかけてじっくり見て行く姿が目立っている。また、友だちと誘いあって訪れる年配者や、父母や祖父母から被爆や戦争体験を聞いてきた親世代が子どもを連れてきて経験を語り伝える光景も多く見られ、「生活に近い場所で被爆や戦争を考えることができる」「子どもを連れてもう一度きたい」と歓迎されている。会場内では、広島の会の被爆者たちが体験を語り、被爆二世や母親などの市民がチラシ配りなどの運営を担っており、広島の会への参加を呼びかけている。
 パネルに掲載されている被爆直後に御幸橋のたもとで撮影された写真に自身が映っている婦人被爆者(83歳)は、広島の会に参加する友人の誘いではじめて原爆展会場を訪れた。
 当時、広島女子商業2年の女学生で、爆心地から約1・6㌔の千田町の広島貯金局に動員されているときに被爆したことをのべ、「机についた瞬間に、いきなり窓一杯に火の玉のような光が飛び込んできて、目の前の棚に入れられていた書類がトランプのように舞い上がった。次の瞬間に自分の体が宙に浮き上がって地面にたたきつけられ、意識を失った。気がついたときには全身に痛みが走り、手足があるのかさえわからないほどだった」と話した。大工をしていた父親が助けに来てくれたが、髪は逆立ち、半身がヤケドでただれ、名前を呼ばれるまでは父だとは気がつかない姿だった。
 写真に頭だけ写っている父親の姿を指しながら、「父は、米軍の機銃掃射で破壊された日赤病院の修理に来ていたのですぐに駆けつけてくれたが、私よりも重傷だった。熱い地面を歩いて御幸橋まで行き、油を塗ってもらうために順番をまっていたときに撮られた写真だ。本当にむごい惨状だった」と話した。母親は、舟入幸町の自宅で黒焦げで見つかったという。父親は一命をとりとめたが、利き手が使えなくなって大工の仕事ができなくなり、図面を書いて生計を立てていたと語り、「一家全滅の家や親子が引き裂かれた人も多くいた。多くの人たちに原爆のひどさを知ってもらいたい」と話した。
 当時、緑井国民学校五年生だった男性は、「今も鮮明に覚えている。市内で被爆して逃げてきた人たちが学校に押し寄せ、収容された校舎は足の踏み場もないほどだった。みんなろう人形のように皮膚が焼けただれ、水を求めてやってくるが、翌日には死んでいた。家族が探しに来るが、火傷で形相が変わって判別がつかない。遺体は、太田川の河原まで運んで焼いていた。爆心直下の相生橋のたもとで水に浸かって生きのびた近所の人は帰ってきたが、原爆症で髪が抜け、斑点ができて亡くなった。私の兄は20歳で陸軍に召集され、硫黄島で玉砕した。戦後60年で現地の慰霊祭に参加し、はじめて実態を目の当たりにした。生存者が案内をしてくれたが、塹壕の中に立てこもる日本兵に向けて米軍は火炎放射器で焼き、ガソリンをドラム缶ごと投げ込んで火を付けて殺したという。原爆も空襲もむごたらしいが、同じように“国のため”といって出征した日本軍の兵士がどれほど悲惨な死に方をしたかも忘れてはならない。戦争は絶対にしてはならない」と強調して語った。「これまで他人に話したことはなかったが、身内から伝えていきたい」とのべた。

 全滅した川内村義勇隊 地域の歴史の継承を 

 60代で被爆二世の男性は、市民から提供された川内村義勇隊の遺族の写真を指しながら、「一気に働き手を失って未亡人になった母親の苦労を思うと胸が締め付けられる。本当は私の家族もこうなっていたかもしれないので忘れることができない」と語った。川内村義勇隊は、爆心地から10㌔以上離れた現在の安佐南区川内地区から被爆当時、建物疎開作業の出動命令を受けて、爆心地の中島本町に動員された250人の村民たちのことで、原爆によって全滅。550世帯、2300人の村民の1割が犠牲になり、働き手を失った妻や子どもたちが多く残され、戦後は女手だけで家族を支えるため血のにじむ苦労をしながら農業を営んでいったことで知られる。
 「当時、私の家族が住んでいた祇園に動員が割り当てられていたが、川内村に変更になったため身代わりになったようなものだ。川内の人は明けの明星から宵の明星まで働く人たちだったが、戦後は何一つ報われなかった。私は戦後生まれだが他人事とは思えない。今広島で外相会議がされているが、たった一度原爆資料館に行っただけで原爆の苦しみがわかるはずがない。まずは日本の政治家が現実を知らなければいけないし、謝罪を求めないくらいならばオバマ大統領が広島に来てもなんの意味もないのではないか」と話した。
 会場には、当時、義勇隊隊長として被爆死した川内村村長の親戚や、犠牲者の孫世代にあたる人たちも訪れ、「子孫としてもっと知りたい」「絶対に忘れてはいけない」と話していくなど、地域の歴史継承に強い思いを持っていた。
 親子連れも多く、パネルの内容を一つ一つ説明しながら読み聞かせる親たちや、孫を連れた年配者たちも涙を浮かべながら語りかけていた。
 二人の娘と一緒に参観した母親は、「広島では原爆について目にする機会があるが、戦地で飢餓や病気で死んでいったことや、原爆投下が戦争を終わらせるために必要なかったことなど初めて知る事実が多かった。このようなことこそ若い人たちに伝えなければいけないが、学校では教えてもらえない。県外になればなおさら原爆の被害について知らされていない。サミットや外相会議で日本政府は“原爆や核兵器はいけない”“被爆国として核廃絶を呼びかける”というが、あれほど被害を生んだ原発は再稼働させるという政府の姿勢に問題があるのではないか。そのような大人の姿勢を子どもにどのように説明すればいいのか」と疑問を投げかけた。
 別の母親は「被爆した母から話は聞いていたが、このように日常的に考えることが大切だ。祖父母は戦死している。国民を貧乏にさせ、さも国がよくなるような美辞麗句を並べて、気がついたら戦争になっていたというのが現代と同じだ。安保法案も国民がわけがわからないうちに法制化してしまったが、自衛隊を志願していた防衛大の卒業生がたくさん任官拒否をしたのを見ると、この国のためになる法律とは思えない。これからは国民一人一人がおかしいと思ったことを声に出していかなければいけない」と賛同者に加わった。
 20代の男性は、「日常とかけ離れた世界と思いがちだが、戦争を体験した人たちがいるから今まで平和があったと思う。時間と共に廃れてしまえば、また同じ事をくり返すのではないかと感じる。最近はテロ、テロといっているが、日本でもいつなにが起こるかわからない雰囲気を感じるようになった。世界情勢が変わったといって憲法を変えようとしているが、70年もやらずに済んでいたことをなぜわざわざ変えなければいけないのか理解ができない」と話した。
 子どもたちや親子連れに体験を語った被爆者たちは、「日本が70年戦争をせずにすんだのは、世界に向けてもう二度と戦争をしないと約束したからだ。それが評価されて一人の戦死者も出さずに済んだ。金もうけのために原発を動かし、武器を売るために戦争をやるというのは一部の人のために日本中を犠牲にすることだ。人を殺してでも金もうけをしたいというのが戦争であり、それを阻止するためには国民が行動して意思表示をすることだ」「広島から真実を伝えていくために力を合わせていきたい」と呼びかけていた。
 また、現在広島で開催されているG7外相会議についても「岸田外務大臣が得意気に“広島から力強い宣言を発表する”といっていたが、アメリカに気を遣って宣言文のなかから“非人道的”という言葉を削除した。これまでもすべての核兵器を廃絶する国際的な署名を拒否したり、棄権したりしてきたが、被爆地から選出されながらなにをやっているのかと思う。外相の職をかけてでも核廃絶のために働くべきだ」「オバマ大統領は就任早早に“核なき世界”という言葉を発しただけでノーベル平和賞を受賞した。それならまず広島に来て原爆投下の誤りを認めるべきだが、それどころか核実験をくり返し空爆を続けている。中身のないパフォーマンスに広島を利用するのでなく核廃絶を実行に移すべきだ」と語られていた。
 フジグラン緑井での「原爆と戦争展」は21日(木)までの2週間おこなわれ、14日までは会場に被爆者たちが常駐して体験を語る。

 アンケートから

 ▼このような活動により、国民の意識を高め、国民の力で二度と戦争がおこらないような国づくりをしていかなければと思う。また国のリーダーや生産性のある企業のトップの人たちにも活動の意義を知ってもらい、協力させるように、国民の総意で意識改革を促す必要があると思う。(59歳、男性)
 ▼改めて戦争の惨さを感じる。私はケアマネージャーをしています。多くの高齢の方が戦争を体験されて、今を生きておられます。被爆者の方もおられ、いまだに健康を取り戻せない方もいます。黒い雨被害も被爆認定されない人も苦しんでいる現在です。本日、広島でG7外相会議がありますが、(核保有国は)自国に帰ってもさらなる議論をして貰い、戦争のない世界の構築を願います。(41歳、介護職)
 ▼雇用が不安定で収入が上がらず、税金・物価が上がる一方で、保育も医療も、介護も崩壊して、「欲しがりません、勝つまでは」の状態は、歴史はくり返していると考えざるを得ない。TPP、原発、安保法制と続く安倍政府の悪政に、アメリカの隠された思惑を論じないマスコミ、野党。大統領候補のトランプが「在日米軍は割高だ」とわめいていたが、それなら出て行ってもらえばいいものをわざわざ引き止めに走る日本政府。その意味で「オレンジ作戦」はまだ終わっていないのだと思う。(44歳、男性、公務員)
 ▼たった70年前に起こったと思えないくらい今の日本、広島は平和です。これまで多くの方方の努力のおかげで平和な毎日がすごせるということを忘れてはいけないと思う。私の祖父も戦死しました。戦争がなかったら、祖母も母ももっと違う人生が送れたかもしれません。自然災害とは違い、戦争は止めることが可能です。末永い日本の平和の日日が続くことを希望します。(52歳、女性、会社員)
 ▼戦争や原爆についての真実が伏せられてきたなかで、いろいろな角度から事実関係が明らかになることが大切なことだと思う。少しずつでも本当のことが伝承される活動、運動をこれからも続けてください。(50代、男性)
 ▼私が思っている以上に戦争・原子爆弾はひどく、たくさんの人の命を返してくれ! といいたいです。私は、このことを次の世代に受け継ぎます。核兵器廃絶をしてほしいです。(11歳、女子、小学生)

関連する記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。