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呉「原爆と戦争展」で体験者や遺族たち 「軍港の悲劇繰り返すな」と熱気 悲惨極めた呉空襲の経験

 広島県呉市の大和ミュージアム4階会議室・研修室において4月29日から、第9回「原爆と戦争展」がおこなわれている。会場には休日を利用して全国各地から大和ミュージアムを訪れる人人に加え、呉市内からも年に1度の同展を参観しに来る市民が多い。原爆と戦争展開催にあたっては準備段階から連合自治会の協力で市内全域でチラシの回覧とポスターの掲示をおこなうなど毎年恒例となっている同展への全市的な支持が定着している。呉空襲の体験者も会場で体験を語ったり資料の提供も増え、展示の内容も年年充実している。会場は呉市の生の戦争体験を掘り起こす場となり、地域の戦争体験の継承運動や若い世代の問題意識の着火剤となっている。空襲体験者をはじめ多くの市民が集い、「呉の真実を伝えたい」「体験を引き継がなければいけない」と意欲を強め、熱い交流の場となっている。
 
 丸腰で戦地に送られた兵士達 

 初日の開幕式では、原爆展を成功させる広島の会会長の高橋匡氏が挨拶に立ち、「昨年、戦後70年ということで話題となった。今年は外相会議が広島でおこなわれた。連合国側は花輪を供えたが、ドイツと日本の外務大臣以外は頭をたれなかった。そこにもまだなにかのこだわりがあるのだろうと感じる。また、オバマ大統領が広島へ来ると騒がれているが、果たしてどのような態度で広島の地へ来るのか、これも注視すべき点だと思う。考えようによっては“広島に来るというだけでも意味がある”といわれるかもしれないが、われわれ原爆を受けた者としては“何らかの形”で気持ちをあらわすことを望んでいる。多くは望まないが、十数万人もの命が瞬時に奪われたという事実は認めて帰ってもらいたいと思う。今年もいろいろなことが起こるとは思うが、事実を次の世代へ引き継ぐことがこれからの私たちの最も重要な仕事だ。命がある限り伝承活動を続けていきたい。呉の市民の方方にはお世話になるが、皆さん最後まで頑張りましょう」と呼びかけた。


 呉市在住で、呉の海軍工廠勤務中に呉空襲にあい、現在体験証言活動をおこなっている高橋節子氏は「振り返れば終戦後の70年は無我夢中で過ごした歳月だった。会場いっぱいのパネル、展示物を見ていただき、これからの日本の将来を深く考えて生きていってほしいと、戦中戦後を体験した私たちは願っている。終戦の年に20歳を迎え、いやというほど経験した“戦争”を忘れることができない。今年90歳になるが、命ある限り次世代に当時を語り継ぐという使命を抱いている」と意気込みを語った。


 呉空襲体験者の元川義秋氏は「呉空襲により同級生や近所の人たちがたくさん亡くなった。またグラマンは超低空飛行で機銃掃射をおこない、操縦士の顔や航空服まではっきり見えるほど近づき人人を殺していった。防空壕の中で蒸し焼きになりながら子どもを抱きかかえて亡くなっている女性の姿など悲惨な光景を目にしてきた。私たちはあの戦争でお互いに敵対してたたかったわけではなく、“銃後”が一方的に攻撃されて殺された。勝った方も負けた方も多くの死者を出した。これでは誰も平和を守れるわけがない。日本はみな“大和魂で助かるのだ”といわれ、“負け戦でもたたかうのだ”と駆り立てられた。この経験を教訓にして戦争のない平和な世界を作らなければならない」と話した。

 造船所だけ攻撃受けず 戦後利用見越して 

 呉市は当時複数回にわたって市街地、呉工廠などへの空襲にあっている。なかでも東京大空襲の9日後の3月19日の呉市街大空襲では、80機のB29によっておよそ8万発もの焼夷弾が投下され、550人もの死者を出した。「爆弾を投下し尽くしたB29が帰って行くさいに、それでも余った爆弾を海へ捨てて海面で炎が燃え上がっていた」と空襲体験者は語っていた。周辺を山に囲まれたすり鉢状の呉市内中は業火に包まれ、一面が焼け野原となった。


 連日会場には呉空襲体験者が常駐して参観者を案内しながら当時の体験を語っている。また、会場を訪れる参観者のなかにも幾度にも渡る呉空襲のなかを生き延びた経験を持つ人が多く、会場で空襲体験者同士で語り合ったり、スタッフにみずからの体験を語るなど、これまで以上に活発な交流がくり広げられている。


 呉市街空襲のさい、市内でもっとも被害が大きく、多くの市民が犠牲となった和庄地区で、中学1年のときに空襲を体験した80代の男性は「山手に4つ並んだ防空壕に逃げ込んだ。一つの壕に100人ほどが逃げたが、私が入った壕以外の3つの防空壕はみな全滅で蒸し焼きになっていた。私たちの壕にも入り口の木枠が燃え煙が充満し始めたが、そのときにみなで小便をかけたり服ではたいて消火した。それ以外にも地面に穴を掘って顔を埋めてなんとか呼吸をしながら生き延びた。米軍はまず東の山沿いの和庄辺りから空襲を開始し、そこから町を囲むように山伝いに空襲をして逃げ場をなくしたうえで中心地を焼き尽くした」と、当時の状況を振り返った。


 女学校を卒業後、呉の海軍工廠で「女子挺身隊」として働いていた90歳の女性は「秘書として海軍からの砲弾などの“受注カード”を封筒から開いて、関係部署の将校などに運ぶ仕事をしていた。敗戦色が濃厚となった昭和一九年の二月頃からは砲弾の受注が来ても返事は“材料不足によりしばし待て”からしまいには“中止”となり、工場としてとても対応できない状況を目の当たりにしていた。軍艦もきれいで大砲を備えていても、撃つ弾も積まずに大勢の乗組員を乗せて戦地へと向かう様子を知り、“赤子を川へ投げ出すようなものだ…”と腹立たしい思いをしていた。しかし当時は“軍機密”として他言は一切許されなかった。とくに呉は監視や情報統制が厳しく、山の上から造船所を指さすだけで特高が飛んできて弁当の中身まで調べ上げられた。周辺の窓も造船所の様子が見えないように全て貼り紙をされるという徹底ぶりだった」と当時の様子を語った。


 また、女性は昭和20年6月22日にあった呉工廠の大空襲を経験した。「直撃弾が鉄筋3階建ての屋根を突き破り建物は炎上した。飛び込んだ防空壕にも煙が回ってきたため、壕から逃げ出してよその防空壕へ走って逃げていると、後ろから米軍の機銃掃射にあい必死に次の防空壕へたどり着いたが“満員だ。ほかの壕へいけ”といわれ、ようやく次の壕へ逃げ込むことができた。私が追い出された防空壕は入り口近くに弾が落ちて土砂崩れによって全員生き埋めとなっていた。あとから分かったが、海軍工廠は爆撃されたが造船所だけは爆撃されずにきれいに残されていた。戦後利用できるものは残すため、アメリカは実に計画的で正確に攻撃していた」と話し、最後に「戦争がどれだけ人の人生を狂わせるかということを知らせたい。昔の呉のことを知る人も語る人も少なくなるが、たくさんの人に聞いてみなに伝えてほしいと思う。お呼びがあればいつでも対応できるようにしておきたい」と意気込みを語った。


 和庄の防空壕で生還した当時七歳だった女性は、呉空襲の体験を紙芝居にして各地で証言活動をおこなっており、会場で紙芝居をおこなったり展示コーナーに絵本を提供している。「あちこちまわって体験を語るなかで、子どもたちが身近に触れられるように絵本作成の要望が来たり、活動に関わった市民のなかから“自分も呉空襲の体験者だ”と名乗り出て体験を語る人も出てきた。みなの反応が出てくるのが嬉しいし、活動にやりがいを感じている」と話した。


 和庄地区では、毎年おこなわれてきた呉空襲での犠牲者の慰霊祭が高齢化などによって昨年で最後となった。年年戦争体験者が少なくなるなかで、市民のなかでも風化させてはならないという意識が広がり、宣伝チラシやポスターを見て自ら会場へ足を運ぶ母親世代や親子連れの姿も目立っている。


 呉市民のなかでも体験継承への意欲や問題意識がこれまでになく強まっている。
 これに対して「呉市のイメージが“戦艦大和”や“海上自衛隊”一色で宣伝されて観光のために利用されている気がしてならない。呉市に住んでいながら、先人たちが経験した身近な空襲の経験について知ることができる場がない。これこそ次世代に引き継いでいくべきものだと思う」(60代、男性)という意見も出され、呉空襲の悲惨な体験が前面に出てこないことに対する違和感が市民から語られていた。


 広島の会の被爆者も会場に詰め、全国各地から参観しにくる親子連れや学生など、若い世代に被爆体験を語った。
 京都から来た男子大学生は「祖母から戦後に食べるものがなく、蛇や犬の肉を食べて生き延びたことなど戦後の苦労については何度も聞かされてきた。しかし、今日展示を見て、原爆や空襲については多少知識はあったが、とくに戦地でたたかわずして病気や餓死で死んでいった人たちが大勢いたことなどは初めて知って驚いた」と語っていた。


 大阪から来た50代の男性は「昨年の安保法制の動きを見てよく分かったが、日本は本当に戦争に向かっている。一人一人がかつての戦争の経験を知り、戦争を止めないといけない。そのためにはこういう展示のようにあちこちで戦争の体験を伝えていく活動、とくに体験者の生の声や気持ちを伝えていくことがもっとも重要だと思う」と話した。
 展示は5月5日(木)までおこなわれる。

 現在の日米関係の根源 アンケートより 

 ▼展示を見て改めて戦争がいかに無慈悲で残虐なものであるかを痛感した。日本軍のアジア諸国における虐殺ばかりが追及されがちだと感じていたが、今回のパネルにおける米軍の艦載機による無差別な機銃掃射や沖縄戦での老若男女を問わぬ殺戮、そして想像を超える形で人人の日常を奪った原子爆弾などアメリカの戦争責任についての展示を見て、どの国も戦争となれば凶悪になると感じた。(京都府、21歳、大学生男子)


 ▼当時の日本国民の数だけ真実があると分かりました。体験された方は減り直接お話を聞く機会がない人もいると思うのでこういう場は貴重だと感じた。パネル展示では、アメリカへの怒りの感情が爆発していてようやくしっくり来ました。テレビや教科書で描かれている日米関係が薄っぺらに見えます。(大阪府、31歳、女性)


 ▼戦争は絶対に体験したくないし、絶対に繰り返してはならない悲劇だと思う。写真を見て何ともいえない気持ちになりましたが、体験談とともに描かれた絵に非常にメッセージ性を感じた。日本は米国に敗れ、占領されました。その後、目に見える支配はなくなったように見られていますが、外交上の圧力など、今でも支配されているのではないかと感じました。また、平和利用という名目で原爆がありますが、東海村や東日本でも事故により被害が出ていることを考えると、やはり原子力は気軽に扱えるものではない。現在はこれまでの悲惨な教訓を生かせていないと思いました。(大阪府、43歳、イラストレーター、男性)

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