長崎市民会館・展示ホールで16日、第12回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、同広島の会、下関原爆被害者の会)が開幕した。戦後71年が経って被爆者、戦争体験者が少なくなるなかで、安保法制など戦争へ突き進もうとする政府に対して、二度と戦争をおこさないために若い世代に真実の体験を語り継ごうという強い思いが語られている。
涙拭い耳傾ける高校生 「無傷だった皇居や三菱」に衝撃
開会式には、これまで同展の開催のために尽力してきた会の被爆者や市民、ボランティアとして宣伝活動をおこなってきた市内の大学生などが参加した。初めに長崎の会の山村知史氏が「原爆が落とされてから71年が経った。私は当時西坂小学校の3年生だったが、自宅の梁の下敷きになって助かった。周囲はパネルにあるような惨状で終戦を迎えた。そのことを後世に語り伝えようと活動を続けている。いかなることがあっても核兵器を使わない、平和な社会を築くために頑張りましょう」とのべた。
次に下関原爆被害者の会と広島の会、さらに田上富久長崎市長のメッセージが紹介された。
下関原爆被害者の会会長の大松妙子氏は「下関を原点とし、広島、長崎、沖縄へと発展の道を開いていただき、みな様とともに強い絆で結ばれたことを大変嬉しく思う」と原爆展運動の発展を喜ぶとともに、「生かされた者の使命として、二度と私たちのような苦しみを、平和を担う若者や子どもたちにさせてはならないとの強い思いを持っている」「体験者の責任において、平和を覆す者とたたかいましょう」と力強いメッセージを送った。
広島の会の高橋匡会長は、「被爆から70年の節目の昨年、あれだけ反対世論の多かった国民の意思を無視して、数の論理で安全保障関連法案を強行採決した安倍政権に対する怒りはおさまりません」とし、「米国の現職大統領の初の広島訪問を世界の報道機関がとりあげ、その挙動が大きく扱われたが、献花、黙祷の後の演説で触れた内容は多多あったが謝罪はせず。被爆者で招待された人数はごくわずかで、対話があったのは2名。慌ただしく去っていった」とのべた。「70年をへた今でも、あの日の惨状は頭から消えない。私たち被爆者、戦争体験者は核兵器の廃絶と戦争阻止をめざして、歴史の事実を忠実に次世代へと引き継ぐ使命がある。ともに頑張りましょう」「あの日の出来事を忘れたとき、再びあの日がくり返される」と連帯の思いをのべた。
参加者を代表して、5歳のときに被爆した婦人は、「浦上川を通るときにたくさんの死体が浮いていたことなどを今でも思い出す。原爆展に参加するようになって、友人にも参観を呼びかけているが“怖くて見に行けない”という人が今でもいる。戦争がなくなるように少しでもお手伝いしていきたい」とのべた。
スタッフとして参加する男子学生は、「原爆が落とされた長崎の大学生として、これからの日本をつくっていくのは今の若者だと思う。今後の日本は、戦争を経験していない世代が戦争についてきちんと学んでいかなければ、ふたたび危険な時代を迎えると感じる。だから自分も何か平和に貢献できることがないかと考えて原爆展に参加している。多くの小学生や中学生、高校生も会場に来ると思うのでそのサポートもしていきたい」と抱負をのべた。
会場には、賛同者として協力してきた市民、親子連れ、ポスター掲示に協力している商店主、中高生、旅行者、外国人観光客など幅広い市民が訪れている。部活帰りの高校生も複数人で参観し、長崎の会の被爆者から体験を学んだ。
鮮明に蘇る被爆体験
女子高生たちに原爆で家族6人を失った経験を語った男性被爆者は、小学2年生で全身が焼けただれて死んでいった母や弟妹の最期を看とった様子を語りながら、「こんな悲惨なことは思い出したくないし本当は語りたくもないが、語ることが母たちの供養だと思っている。なぜ母や弟たちが死ななければならなかったのかと今でも悔しく思う。絶対に戦争はくり返してはならない。私は親孝行がしたくてもできなかったから、みなさんには両親を大切にしてほしい」と涙ながらに高校生に訴えた。女子学生たちも涙を拭いながら話を聞き、「長崎出身だが、本当の原爆の怖さを知らずにきた。親が亡くなったり、兄弟が帰ってこないというのは想像できない」「これほど悲惨な体験を聞いたのは初めて。パネルの写真と重なって戦争の悲惨さを感じた。戦争は絶対に反対だ」と口口に感想を語った。
愛知県から仕事で来崎中の男性は「初めて目にするような写真や資料ばかりだった。写真を見ながら、もしこれが身内だとしたら…と思うと、絶対に戦争を起こしてはならないと強く思った。天災続きでたくさんの方が亡くなっているのに、人災である戦争など絶対になくさなければならない。しかし、今も世界中で戦争は起きているし日本も他人事ではないように思う。ニュースを見ていると、だんだん戦争ができる国に近づいているのではないかと思うときがある。これから戦争や被爆を体験した人たちが少なくなり、自分を含めて戦争を知らない世代ばかりになる。だからこそ戦争の真実を知っておくべきだし、どんなことがあっても戦争には反対の声を上げ続けなければならないと思った」と真剣な表情で語った。
被爆2世で60代の男性は「母が西山で被爆したので、当時の話は何度も聞かされてきた。祖母は爆風を受けて腰を抜かし、ショックもあって2週間後に亡くなったという。西山の辺りは木造が多く、爆風で家が潰れ、その家の下敷きになったりして死んだ人がたくさんいた。亡くなった人人を大八車に乗せて、市民会館のある魚の町まで運んできて火葬したという。同級生もほとんどが被爆2世だし、周囲にはケロイドの残った人もたくさんいるなかで育ってきた。2世の友人のなかには結婚を断られた友人もいる。被爆者のなかには体験を語らないまま亡くなった人も多く、埋もれたままの真実も多いと思う。その体験をこれから事実そのままに伝えていくことが大切だ」と語った。そして「“貧乏になって戦争になっていった”というパネルにあるが、今また世界中の経済が落ち込んでいる。いつの時代も不景気から戦争が始まっている。世界中で過剰に民族主義が煽られているのを見ていると、また戦争になるのではないかと思う」と危機感を語った。
戦争終わらせる為は嘘
11歳のときに平戸小屋の自宅で被爆したという男性は、8月1日の空襲にもふれて、「戦争末期には毎日のように敵機が来て攻撃を受けて民家が焼かれた。空襲での被害を避けるためといって何軒もの家が建物疎開で壊された。しかし、目の前にある巨大な三菱造船所はほとんど攻撃を受けていない。三菱の工場など本来なら真っ先に攻撃される場所だ。しかし、何度もくり返される空襲でも原爆でも残された。広島の三菱も残されている。ずっとおかしいと思っていたが、パネルのなかに下関でも三菱や神鋼が残されたことや、三菱の岩崎小弥太の発言で“(日本の敗戦は)必ずしも不幸なことばかりではない。われわれは今後愉快に仕事ができると思うからである”といっていたのを見て納得した。上の人間は全部繋がって知っていたということだ。そのうえで戦争を続けてもうけた。国民がその犠牲になったということだ」と憤りを語った。
そして「被爆者もだんだん少なくなってきている。同級生も一人、また一人と亡くなっていく。そういう状況のなかで国会のニュースなどを見ているとまた日本政府は戦争に突き進もうとしているのではないかと不安になる。だからこそこのような展示で少しでも多くの人に戦争、原爆の真実を知ってもらいたいと思う」と願いを込めた。
城山小学校卒業で72歳の男性は「こうした事実を知らせるとともに、当時の様子を伝える生きた遺産を大切にしてもらいたい。長崎市は記憶の継承といいながら、平和公園にあった防空壕もエスカレーターを設置するために埋めてしまい、城山小学校の防空壕も埋めた。浦上天主堂も、当時の田川市長が渡米したときに“キリスト教の国がキリスト教会を痛めつけた”、という罪を消すためにアメリカの要請でとり壊した。復興の象徴としてつくられた公会堂も潰そうとしている。市内から被爆遺構がどんどん消えている」と語った。
また、「爆心地から500㍍の城山小学校では、半分は胎内被爆者や被爆二世など原爆の影響を受けた子ども、もう半分は被爆と無関係の子どもを集めた“原爆学級”がつくられ、ABCCが定期的に血液検査から知能レベルまで調査していた。まるで人間ではなくモルモット扱いをしていた。そんなことは今はすべて伏せられている。昔はケロイドで腕が引きつったり、皮膚が真っ赤になった人たちがいたが、今は見なくなった。きれいごとではなく、生生しい傷を伝えなければいけない」とのべた。
埼玉県から来た60代の女性は、「初めて長崎に来たが、“戦争を早く終わらせる”といいながら、アメリカは東京空襲でも皇居は狙わなかった。本来ならば処刑されるべき権力者が生かされ、膨大な国民が殺された。今もその構図は変わっていないと感じる。閉塞感を感じる時代だが、目を開かされる展示だった」とのべた。
そして、「過去の事実を知ること、忘れないこと、身近な人間に伝えていくことの大切さを改めて痛感した。平和な社会を創っていく努力は、日常的に不断に暮らしの中で持続させないと、強大な権力は計画的に執拗に平和を破壊していく。流されないこと、欺されないこと、命や平和を破壊する力への抵抗や反撃はあきらめず、しぶとくやっていく一人一人にかかっていると思う。人としての尊厳を破壊する圧力には、根気よくたたかい続けること…改めて反芻した」とアンケートに記し、冊子を購入した。
集団で訪れた中国の大学生らも熱心にパネルを見て、「原爆がこれほどの人人を苦しめたことは伝えられていない。一部の人たちは“戦争を早く終わらせた”というが、原爆を使うことは絶対に間違っている」とのべた。
長崎「原爆と戦争展」は21日(火)までおこなわれ、19日(日)には午後1時30分から会場で交流会が開かれる。