アメリカによる原爆投下から71年目を迎えた広島で6日、2016年原水爆禁止広島集会(主催・原水爆禁止全国実行委員会)が開かれた。この間、広島では7月29日から袋町市民交流プラザで第15回広島「原爆と戦争展」が、30日からは平和公園で青年学生による同展の街頭展示もおこなわれており、どちらも国内外から連日多くの参観者が訪れた。また、市内中心部には原水爆禁止全国実行委員会の宣伝カーがくり出し、街角では「アメリカに原爆投下の謝罪を求める署名」もとりくまれた。安倍政府のもとで戦争へ向かう動きが露骨に強まっているなかで、戦争体験世代から若者にいたるまで意識は鋭いものになっており、一連の8・6行動は例年にない反響を呼んだ。被爆地広島を代表して真実の声を伝え、二度と戦争をさせぬ力を束ねる唯一の運動として市民各層のなかに浸透し、大きな存在感を示した。
全広島代表した8・6行動 世代や国境超えた交流
6日午後から広島県民文化センターで開かれた2016年原水爆禁止広島集会では、初めに参加者全員で黙祷を捧げた後、原水爆禁止全国実行委員会事務局の川村なおみ氏が基調報告を提案した。
その後、劇団はぐるま座団員による峠三吉の詩「墓標」の朗読がおこなわれた。続いて広島、長崎、下関の被爆者が発言した。
原爆展を成功させる広島の会の日高敦子氏は、九歳のときに爆心地から3・5㌔㍍のところで被爆した体験を語った。疎開先から一緒に広島に戻った従姉妹は、爆心地から850㍍の八丁堀で原爆にあい、家の下敷きになって母親も助けることができずそのまま炎に包まれ、白骨になって見つかった。日高氏は、「原爆で死んだのはなんの罪もない幼い子ども、そして日本のために一生懸命働いてきた人たちばかりだ。その不幸の運命は言葉にあらわせない」とのべ、今の日本が経済優先のかけ声のもとで危うい方向に向かっていることを危惧し、「核廃絶と戦争反対、そして平和を守る力になりたい。小さな力が大きなうねりになるよう頑張りましょう」と語った。
原爆展を成功させる長崎の会の永田良幸氏は12歳のときに城山で被爆。再会した母親は、子どもである自分がわからないほど顔は焼けただれ、胸も焼けて溶けていた。それでもすでに息を引きとった妹をしっかりと胸に抱えていたことを涙をこらえて語った。自分が親孝行できなかったことを悔い、親孝行の大切さを子どもたちに切切と語り、「もっとも憎いのは、広島と長崎で種類の違う原爆を使用し被爆者を実験台にしたアメリカだ」と怒りを込めた。そして二度と戦争をくり返させないために戦争と原爆の真実を語り継いでいく決意をのべた。
下関原爆被害者の会の河野睦氏は、女学校2年生のときに下関空襲で焼け出され、親戚を頼って広島に行きそこで被爆した。学徒動員の建物疎開で東練兵場にいたときに爆撃を受け、たまたま日陰にいて助かったが、日向にいた1年生はひどいやけどを負って泣きながら逃げ惑い、西練兵場にいた同級生は全滅した。70年たった今、戦争の悲惨さを知らない安倍首相をはじめとする政治家たちがまた同じ道を進もうとしていると怒りを込めて語り、「“国民の平和を守る”という言葉に国民はもう騙されない」と語った。下関原爆被害者の会は「二度と同じ経験を若い世代にはさせない」と会再建から22年にわたり体験を語り継ぐ活動を続けてきたこと、現在も学校で被爆体験を語る活動をしており、子どもたちや教師がしっかりと受け止めてくれていることに勇気をもらっているとのべた。下関から始まった原爆展運動が全国に広がり、大学生をはじめ若い世代がしっかりと担っていることへの喜びを語り、「私たちもできるかぎり体験を語り継いでいきたい」とのべた。
ここで、前日から広島を訪れている「第17回広島に学ぶ小中高生平和の旅」に参加した総勢80人が登壇。「平和の旅」で広島・長崎の被爆者から学んだことを堂堂と発表した。
各分野からの報告 新鮮な怒り継承し前進
続いて、山口県小学校教師の佐藤公治氏が、子どもを戦場に送らない教師の使命にたち、「みんなのために頑張る子ども」を育てる教育運動をとりくんできたことを報告した。平和の旅に参加した子どもたちがこの2日間、被爆者の思いを受けとめ、団結してまとまっていったことを紹介し、子どもたちの無限の力を信じ、平和の担い手として育てていくこと、全国と連帯した運動を教育現場からもつくっていくと決意をのべた。
続いて発言にたった大学生の三浦友実氏は、学内で開催された原爆と戦争展に出会い、活動に参加するようになったことを語った。当時「お国のため」と戦争にかり出された人人が戦いではなく飢えや病気で死んでいったこと、日本国民はそれを知らずに勝利を信じていたことに衝撃を受けたとのべた。学校の授業やテレビなどでは真実に触れられず、「これでいいのか」と思ってきたが、被爆者や戦争体験者の体験に根ざした「二度と戦争をくり返してはならない」という強い思いに触れ、「私は声を聞くことをやめない。学ぶことをやめない」とのべた。力強い言葉に会場からは温かい拍手が送られた。
米軍基地撤去世論が盛り上がる沖縄からは、沖縄原爆展を成功させる会の源河朝陽氏が発言。戦後71年を経た現在、日米両政府が新基地建設を民意に関係なく強硬に進める一方で、沖縄県民のなかでは辺野古新基地建設にとどまらず米軍撤退の世論が圧倒していること、今年5月に起きた元米海兵隊による女性暴行・殺害・遺棄事件をきっかけに怒りが噴き出し、6月19日の県民大会では「海兵隊の撤退」が決議され、7月の参院選では自民党公認の大臣を大差で打ち破り、アメリカとそれに追従する安倍政府に大打撃を与えたことを報告した。本土と連帯して米軍基地撤去の運動を強めて行く決意を語った。
原爆展を成功させる会・名古屋の矢神繁氏は、昨夏から1年間、名古屋や豊橋など10カ所で原爆と戦争展をおこない、のべ2000人が参観していることを報告。各地の戦争の実態を掘り起こしていく活動を重視し、初めて開催した豊川市では1945年8月7日の米軍による豊川海軍工廠への爆撃で、わずか26分で2600人が殺されたこと、その犠牲者たちが大きな穴に1000人ずつ埋められ六年間も放置されていた事実がわかったと話した。原爆展全国キャラバン隊による「語れなかった東京大空襲」が新鮮な感動をもって受け入れられたことをのべた。そして「被爆者や戦争体験者にしっかりと学び、受け継ぐことこそが戦争政治を覆す力になる。そのための努力を続けていく」とのべた。
発言の最後に長周新聞社の女性記者が発言。昨夏から秋にかけて、安保関連法強行採決反対の行動が盛り上がる東京・国会前をはじめ、都内の各地で原爆と戦争展を開催してきた経験をのべた。痛烈な戦争体験やアメリカへの怒り、そして二度と戦争をさせてはならないという思いを体験世代が堰を切ったように語り、若い世代からはどうやったら戦争を阻止できるのか、自分たちにはなにができるか、という真剣な思いが次次に寄せられた。また、下町に入り3月10日の東京大空襲の体験を掘り起こし、今に続くアメリカの対日支配の構図を明らかにしてきたこと、それを号外にして東京や沖縄でも大量に配布し、大きな反響を呼んだことを報告した。戦争に向かう動きが現実味を帯び、それをどう阻止していくかが課題になるなかで、多くの人人の体験に根ざした戦争反対の思いこそが真実であるとのべ、「日本全国にわき起こっている戦争阻止の運動を一つに束ねて奮斗していく」と語った。
最後に会場からベトナムの留学生が発言。自身が通う大学でおこなわれた原爆と戦争展を見て、そこで戦争の真実に触れ、被爆者の体験を聞き、衝撃を受けたと語った。学んだことを忘れず広げたいと、原爆展ボランティアスタッフに通訳として参加するようになった。世界各国の人人が自分と同じように衝撃を受けて感動していることを報告し、今後の意欲をのべた。沖縄の参加者は、職場で「原爆と戦争展」や署名活動をとりくんでいることを報告した。
峠三吉群読し行進 例年上回る市民の支持
集会の最後に、広島の学生が力強く集会宣言を読みあげ、満場の拍手で採択。シュプレヒコールののちにデモ行進に出発した。
デモ行進では、平和の旅の子どもたちを先頭に、峠三吉の「序」「八月六日」などを群読しながら元気よく行進した。また、「広島・長崎の新鮮な怒りと戦争の真実を若い世代に、全国、全世界に伝えよう!」「アメリカは原爆投下を謝罪せよ」「原水爆の製造・貯蔵・使用の禁止!」「アメリカは核を持って帰れ!」「日本を中国・朝鮮への核出撃基地にするな!」「アメリカの核戦争の盾にするな!」などのスローガンが広島の中心部に響きわたった。
沿道では、宣伝カーや詩の群読、スローガンを聞いて店から出てきて見守る店主や従業員、スマホやカメラで写真を撮ったり、手を振ったりする市民が例年にも増して目立った。全広島を代表する訴えに強い支持が寄せられた。
終着点の原爆ドームに到着した参加者は、今後の各地での奮斗を誓いあい解散した。