熱中症で倒れる人人があいついでいるのを反映してか、クーラー論争みたいなものがヒートアップしている。子どもが熱中症で亡くなったことや、学校行事やスポーツをして倒れる子どもが増えていることから、学校にクーラーをつけなければならないという内容に加えて、炎天下に子どもをさらすことが人権侵害で児童虐待であるかのような主張までが飛びかっている。そして例の如く学校が自己防衛に汲汲として、夏休みの部活を中止したり、キャンプを中止したり、誰も倒れていない学校までみんなして萎縮しているのである。まるでピラミッド撲滅キャンペーンに脅えているのとそっくりな光景だ。
確かに今年は異常な猛暑で、実態に即して水分補給や行事のとりやめなどがなされてしかるべきだろう。何もわからない子どもが相手ならなおさらで、状況に応じて大人が判断し、猛暑の過ごし方やいなし方を教えることが必要だ。ただ、クーラーがあって快適なのにこしたことはないが、それをつければ万事解決という代物でもない。セミを獲りに行きたい、キャンプに行きたいという子どもたちを夏の間中クーラー部屋に放り込んでおけばいいというものでもないだろう。
冷房漬けであるが故に子どもたちの体温調整機能が弱まり、汗腺が少なくなっていることや、食事や睡眠といった基本的な生活習慣の乱れが熱中症につながっていることを現場の教師たちは大いに懸念している。給食がない夏休みが明けると一回り痩せて出てくる子どももいるほどで、食生活一つとってみても状況は千差万別だ。子どものためを思うなら暑さから逃れさせるだけでなく、同時に学校や家庭生活も含めた過ごし方や食生活の在り方にも心を配り、春夏秋冬の変化に耐えうる体力をつけさせることにも目を向けなければならないのだと--。一方的に「クーラーが」「炎天下が」と叫ぶだけではなく、複合的な要因にしっかり向き合わなければ、倒れる子は倒れてしまうのである。
ただ、このような反論でもないただの意見すらのべにくいほどヒステリックな圧力が加わり、過剰反応して学校という学校で、とくに責任を問われる管理職ほど萎縮している。クーラーを設置するか否かだけにムキになったり、炎天下の行動をすべて規制せよといわんばかりの論調だけが一人歩きするのは、それ自体が冷静さを欠いており、異常といわなければならないものだろう。地域によっても日によっても温度や湿度は異なるわけで、実情に即して対応するしかないのだ。暑い夏を乗り切る知恵と同時に、強さを育んでいくことも重要になっているように思う。
下関のある学校では、スポーツ大会で倒れた生徒の多くが吹奏楽部の部員だったという。前日の野球応援の疲れがあったのかもしれない。黒黒と日焼けした運動部の生徒がピンピンしている傍らで、やはり体力や炎天下への耐性の違いが出たようだ。日頃からクーラーの効いたオフィスで仕事をしている人間が屈強な土木作業員には敵わないのと同じで、仕事柄や環境によってもその耐性は異なるのが実際だ。
猛暑は気をつけなければならないものではある。しかし、過剰反応しすぎるのもまた違うような気がしてならない。吉田充春