カジノ法案の審議とかかわって、国会で20年前(1999年)の下関市長選において、「総理が(反社会勢力に)選挙妨害を発注したのではないか」(山本太郎)という質問が飛び出し、随分と昔の安倍事務所襲撃事件が再び脚光を浴びている。
刑務所に放り込まれていた小山某(襲撃を依頼)や襲撃犯とされた工藤会の組長がそれぞれ出所したことは、今年に入ってから下関市内でも一部の人人の間で話題になっていた。狭い街のなかで本人があえて各所に出没していたからだ。「講談社から暴露本を出す」といった内容を多少の資料も見せつつ、おしゃべり好きなスピーカーたちに触れ回っている姿は、それが間接的に安倍事務所の耳に届くことをわかっている者が、何らかの反応を期待してやっている、ないしは揺さぶっている事が十二分に伝わってくるものだった。そのために利用できる媒体を探しているような印象すら受けるものであった。
そんななか、この事件を追ってきたジャーナリストが接触して安倍事務所秘書(故竹田力、山口県警警視出身)との念書等の存在を明らかにしたことがきっかけとなり、これが動かぬ証拠として物議を醸している。「念書を見た」から念書の写しを得るところまでたどりついたのが十数年の進展なのだろう。
いまや20年前の登場人物である安倍事務所秘書の竹田某も佐伯某も、さらに金庫番だった奥田某も鬼籍に入ってしまい、生きていても口なしだったのが名実ともに「死人に口なし」となった。このなかで、山口四区や下関で暮らす者にとって、父親の晋太郎から晋三へ代替わりして25~27年、この四半世紀のはじまりの時期に起こった安倍派分裂劇とヤクザ顔負けの跡目争い、その後の徹底的な粛正を経た「一強体制」の確立は、今につながるルーツとして感慨深いものがある。
あの市長選において、「古賀敬章は朝鮮人だ!」というヘイトビラや女性スキャンダルのビラ配布を安倍事務所秘書が小山某に依頼して市長選を妨害したという疑惑は、実行者がそのように証言しているのもさることながら、それを聞かされる下関の関係者にとっては何ら違和感がなく、むしろ「いかにもやりそうだ」「代替わりで相当に焦っていたから…」「私設秘書だったノブちゃん(佐伯)は汚れ役」など、一部では既成事実として受け止められてきたのも事実だ。
古賀敬章はもともとが安倍派県議であり、晋太郎から実力をかわれて「そのまま県議として支えていたら知事になれたのに」と安倍派内で語られるような若手ホープだった。ところが晋太郎が亡くなった混乱期の跡目争いで、安倍事務所の秘書や支持者を引き連れて安倍派を飛び出し、当時政治改革たけなわだった中選挙区制最後の衆院選(93年)、すなわち安倍晋三のデビュー戦となる国政選挙に出馬してその地位を脅かした。そして3年後の96年の衆院選(小選挙区)でも新進党から出馬して脅威を与えていた。一度ならず二度にわたって反旗を翻し、代議士にとって命綱でもある地盤を揺さぶったのだった。そして99年市長選において市長ポストをもぎ取りにいったところでこの誹謗中傷ビラとなった。
晋太郎が亡くなった後、比例区で安泰をむさぼる道を選択した林派とは裏腹に、地盤を割ってまで同世代として地位を脅かしにくる叩きあげの存在は恐ろしく、怨恨の執念が相当なものだったことは容易に想像がつく。ただ、その反撃手段が「古賀敬章は朝鮮人だ!」(実際には朝鮮人ではない)なのがいかにもらしさ全開で、ここにこそ首相本人の関与を疑わせるものが通底しているように思えてならない。今日につながるヘイトの源流だったのではあるまいか、嘘に躊躇がなく政敵を貶めることに味をしめた経験の始まりなのではあるまいかと--。
中国の粛正、北の粛正にも負けず劣らず、下関の粛正も大概のものだった。古賀についた企業は徹底的に公共工事から排除され、古賀の実父や姉が経営していた日東建設も金融機関の貸し剥がしにあって倒産した。古賀敬章やひっついていた連中も大概な野心家だったという記憶と共に、一連の政争(抗争)がいまさらながら思い出されている。
武蔵坊五郎