大阪で起きた池田小事件以来、小学校や中学校の職員室には刺股(さすまた)が完備され、もしかの場合にはそれで犯罪者を取り押さえるようにと現場の教員には申し伝えられてきた。まさか拳銃を持って学校を襲う者などいないという前提で--。元自衛官による富山交番襲撃事件と学校襲来は、そのまさかを覆す前代未聞の出来事となった。拳銃が相手なら教員が刺股を何本持っていたところで太刀打ちなどできない。
モデルガンのマニアで、なおかつ元自衛官という経歴からして銃の扱いにも精通していたのだろう。軍人上がりの21歳が身勝手極まりない殺意を暴れさせ、まるで見知らぬ相手に銃や刃を向ける。その精神世界とはどのようなものなのか、想像を絶するものがある。子どもたちが無事だったことがなによりの救いではあったが、さながら池田小事件の再来になりかねなかったのである。
池田小事件を引き起こした宅間某は「下関事件の模倣犯になりたかった」と公判でのべていた。その下関事件(下関駅に車で突っ込み、駅構内で無差別に殺傷した)を引き起こした上部某もまた、宅間某と同じくエリート街道への羨望を持ちながらレールからはじき出され、理想と現実の違いに打ちのめされていたのだという。そうして鬱屈したひがみや満たされぬ自己顕示欲を歪ませ、最後は無差別殺人という破滅的な行為に及んだ。
こうした恨みなき他者を殺めてみずからの鬱憤を晴らす行為の蔓延と浸透は、銃乱射事件が頻発するアメリカとも大差ないものに思えてならない。相模原障害者施設襲撃事件、先日起きた新幹線襲撃事件といえ、いまやあっちでもこっちでも弱者を狙ったり「誰でもよかった」などという残忍な事件が絶えず、特殊な事件として片付けられないほど野蛮で身勝手な殺人がくり返されているのである。この普遍性は何をあらわしているのか、社会が抱えている病巣をえぐらなければならないと思う。
一昔前や二昔前には想像していなかったほど、殺人への躊躇がない人間が次から次へとあらわれ、今だけ、カネだけ、自分だけのイデオロギーが浸透する時代を暴れ回っている。これは宗教を背景にしたジハードとも明らかに異なる。どこまでも自分の感情がすべてを超越し、そのために他者がどうなろうが知ったことではないという反社会性に特徴がある。犯罪が社会を映し出す鏡ならば、そのような身の毛もよだつ殺人狂時代が到来していることについて、私たちはもっと深刻に捉えなければならないと思う。ジメジメとした環境にカビが生えるのと同じように、この凶暴なる殺人イデオロギーの病巣は社会の上層にも低層にも根をはっているのである。武蔵坊五郎