森友&加計問題を巡る国家の私物化のからくりは、既に大概のことが暴露されている。常識的に考えると安倍晋三や昭恵、その界隈は早くから詰んでいる。それは正正堂堂と疑惑に向き合わず、逃げ回っていることがすべてを物語っているのではないだろうか。嘘や隠蔽、口裏合わせや誤魔化し、逃亡は、やましいことをした人間の行動様式だ。そうでない者なら「否」と全力で反駁するのが自然だ。当事者であった前川喜平氏(文科省元事務次官)がのべていたように、行政が歪められて安倍界隈がイイ事をしていたというのは、ほぼ疑いのない事実なのだろう。ところが捜査当局が真面目に捜査をせず、犯罪者を割り出して逮捕・投獄しないことから、いつまでもケジメのない逃亡劇と追いかけっこが続いている。検察もいい加減なものである。
こうした状況下で暴かれているのは、単に登場人物たちがいかなる犯罪に関与したかというだけにとどまらない。立法、行政、司法による三権分立などといってきたが、この三権がまるで分立しておらず機能していないことや、しまいには公文書が改ざんされ、官僚たちまでが全体の奉仕者たる立場を投げ捨て、安倍&界隈の奉仕者に成り下がっていることなど、統治の在り方が根本から崩壊していることである。「国破れて山河あり」ならぬ、「国ぶっ壊して安倍&界隈あり」といっても過言ではない状況が、安倍政治6年によってたどり着いた日本社会の姿なのだと思うと、唖然とするものがある。
この国は為政者の側も含めてすべての国民が等しく法の下に暮らし、悪事を働けば刑罰の対象になる法治国家だったはずだ。韓国で前大統領が懲役30年を求刑されているのを見ていると、向こうの方がはるかに健全で自浄能力が働いているではないかと思えてならない。特定の権力を握る者については何をやっても無罪放免で免除されるというのであれば、それは封建制社会か独裁国家にほかならない。改憲とか憲法9条の何項がどうのという前に、首相やその界隈がまず「法治国家である」という認識に立っていないことをどうにかしなければ、改憲論議も何もあったものではない。その憲法がみずからに厳しく向けられ、大衆を縛る民法や刑法とて、為政者ならば犯して良いという基準などないのである。
公文書の廃棄や改竄というと、かつて終戦間際に大日本帝国の戦争犯罪につながりそうな記録や公文書を、軍隊や官公庁でみな焼き払ったのとそっくりな証拠隠滅体質を思わせている。そうして記録をみな隠滅し、真実を知る戦地体験者などが亡くなってゆきつつある時代のなかで、「侵略の事実はなかった」「慰安婦はねつ造だ」などと開き直っている勢力が闊歩している。戦後、日本の支配層はアメリカに屈服することで命乞いをし、霞ヶ関の官僚たちや統治機構も解体することなく、丸ごと引き継がれて今日に至っている。彼らは民族的利益を売り渡し、対日占領の協力者になることで戦後出発した経緯がある。戦争犯罪者のDNAだけでなく、書類を焼き払って命乞いしたDNAが、戦後73年たった今も脈脈と受け継がれているといえる。 武蔵坊五郎