米大統領のトランプが2日、中国に対して、北朝鮮に対処しなければ「武士の国」である日本がみずから事に当たる可能性もあると警告し、さらに東南アジア諸国の首脳らとの会談では、日本列島上空を通過した弾道ミサイルに日本が破壊措置をとらなかったことについて「迎撃するべきだった」「武士の国なのに理解できない」と述べていたことが明るみに出ている。空母を三隻派遣したり、米韓軍事演習を実施するなど煽るだけ煽っておいて、いざ軍事行動になると最前線に日本を引っ張り出して肩代わりさせるというのである。
このようなふざけた話に乗せられて日本と北朝鮮が武力衝突させられるなど論外だが、21世紀にもなって「武士の国」が黙ってないんだぞ! とか、「武士の国」なら迎撃するべきとか、トランプの脳味噌のなかでにわかに流行している「武士の国」とはいったい何なのだろうかと思わされる。映画『ラスト・サムライ』でも鑑賞して真に受けているのだとしたら相当な頓珍漢といわなければならないし、こうした発言が国際政治の場で真顔でくり返され、終いには鉄砲玉にされるなど愚の骨頂である。
欧米人のなかにある日本のイメージといえば、一般的に富士山(フジヤマ)、芸者(ゲイシャ)、忍者(ニンジャ)、蝶々夫人(マダム・バタフライ)、侍(サムライ)なのだという。近代や現代のイメージよりも、どちらかというと中世から近世、つまり封建制社会の日本に対する、他にはない民族的特異性への興味関心のようでもある。欧米人にとって、グリニッジ天文台を中心とする世界地図のなかに描かれた日本は、もっとも右端の極東に位置する小国だった。そんなジパング発見やチョンマゲをした人間への強烈な印象が、大航海時代を経てなお、物珍しさを伴って潜在意識に生き続けているのかもしれない。しかし、武士や侍というのは既に150年前の明治維新革命によって駆逐された過去の遺物でしかなく、現役の米国大統領が「武士の国が」「武士の国なら」などと口にすることはナンセンス以外の何ものでもない。
目下、トランプが「武士の国」に求めているのはみずからへの忠義や献身で、君主のために生命を投げ出してでも滅私奉公せよ、つまり主人であるアメリカのために「北朝鮮とやりあって死んでこい」という露骨なものである。ミサイル攻撃の標的になることも厭わずに拳を振り上げる、忠実なる下僕という設定である。そして、そんな「武士の国」では、武士道が美とするらしい自己規律の精神とは裏腹に、未練がましくモリカケ疑惑から逃げ回ったり、福島第1原発のような前代未聞の原子力災害を引き起こしながら誰一人責任をとらなかったり、それこそ対日占領ともかかわる第2次大戦の始末も含めて、潔く非を認めたり、腹を切る者など一人もいない。国益を売り飛ばしてでもアメリカに屈服する政治家や官僚ばかりなのである。
日の丸を振り回して親米派の正体を誤魔化している者たちも含めて、時代錯誤の連中にけしかけられ、他国との戦争に駆り出されるわけにはいかない。 武蔵坊五郎