25日の晩、夕方に首相が「国難突破解散」と発言したことに反応して、SNSのツイッターでは「♯おまえが国難」という言葉がトレンドに急上昇し、突然消えるという不思議な出来事があった。トレンドに上がるのは今盛り上がっている話題で、その瞬間に相当数が同じことをつぶやいていることを示す。そこで「♯おまえが国難」が一種のお祭り状態と化していたが、忽然と表示が消えたのだった。著述家の菅野完氏のアカウントが永久停止されたことも含めて、ツイッターの運営に現政府を批判する言論を統制する力が加わっていることをうかがわせるものだった。
これは、ネット上が自由な言論空間と思っていたら大間違いで、社会的に影響力があると見なした場合、運営側によって管理統制することはいかようにも可能であることを教えた。従って、SNSなりネットという手段を奪われたときに、人人はどう時間軸を同じくしてつながるのか、紙媒体なきオピニオンリーダーたちはどう言論を発信していくのか、まず言論の自由を保障することが大前提だが、考えさせるものがある。デジタルだけなら、最悪の場合、権力を持っている者が通信を抑えれば封じ込めることができるのである。みんなが何を考えているかという問題意識を遮断することだってできるのである。
スマホやパソコンは、その利便性から社会生活を送る上ではなくてはならない必需品になった。そして、ツイッターに限らずブログ等で自分の意見をのべたり、他者のホームページを読んだり、共感してつながったり、批判を加えたり、さまざまな営みが可能になった。しかし、前述したように管理統制は容易であるし、発信できるだけではない。情報のなかには意図的な嘘も紛れ込む。さらに、そうした電子機器から権力側が個人情報をのぞき見する社会でもある。この監視社会の実態についてはエドワード・スノーデンの暴露過程を追った映画『シチズンフォー』であったり、書籍では『スノーデン日本への警告』(集英社新書)、『スノーデン、監視社会の恐怖を語る』(小笠原みどり著、毎日新聞出版)等に詳しい。スマホやパソコンを通じて、しっかりと国家に個人情報を握られているのである。人人が手にしているスマホのカメラ機能の向こうから、諜報機関が生活を覗いたり、会話を聞いていることもある。どこにいて、何を発信しているかも一発で特定されるのが現実だ。
このように気持ちが悪い監視と統制がゆき渡った社会にあって、だからといって萎縮するのではなく、あるいはネットという手段だけにすがりついて絶望するのではなく、街頭にくり出したり、直接言葉によって、アナログの文章によって横につながることを疎かにしてはならないと思う。ツイートをポチっとするだけでなく、「♯おまえが国難」なのだと声に出して、はっきりと意志表示する行為こそが、民衆としてのより積極的な社会への異議申し立てであると思う。 吉田充春