下関市立大学が独立行政法人化によって、特定集団の利権の道具になって、大学機能が崩されていることが大きな怒りを呼んでいる。大学は真理、真実の探求をする場であり、そういう教育をすることに使命を持っている。こと下関の問題だけに限っても、どうしてこのように衰退しているのか、どういう障害があり、それをどうなくして、どういう方向に発展性があるのかなど、市民が知りたい真実を教えてくれる大学研究者の役割は大きい。とくにこれほど世界が激動し変動するなかで、なにが真実か教えてくれる役割は大きい。
ところが、利権集団によるヤクザ的な支配が横行したり、利権集団の間の抗争が続いたりして、教員も職員も疑心暗鬼のなかにおかれ、「物いわばくちびる寒し市立大」状態では真理どころではない。税金泥棒がはびこる世の中であるが、せめて真理、真実が生命である大学だけは自由にものがいえる状態であってほしいものだ。いっぱいウソをついて選挙に通った市長が管理する大学であるが、市長がいくらウソつきだからといっても大学までウソをはびこらせ、利権の道具にするのでは世も末である。
大学も金もうけであり、効率化が第一だといって、職員は非正規雇用ばかりをふやし、図書館事務や入試事務のような専門的な仕事が滞るようにし、学費も他の公立大と同額に引き上げて利権の原資を増やしたが志願者は減り、「公共マネジメント学科」という新しいものをつくって学生を増やすのだというが、市の職員に講義させたりでなにを教えたいのかわからない。
経営効率第一というが、学生が集まらなければ経営は成り立たない。利権の食い物にされ、ウソがはびこるところは世間では大学とはいわない。大学でないところに学生たちが高い授業料を払って集まるわけがない。市役所は市民のために働くから市民は税金を払う。あらゆる商品は、人の役に立ち社会的な有用性があるからこそ、値段がついて買ってもらえる。値段だけがあって人の役に立たないものを買わせようというのが、中尾市長流の「経営者視点」なのだ。下関がつぶれていくゆえんである。 那須三八郎