主食のコメは1日3食を摂るうえでも必要不可欠なもので、どの家庭も昨今の値上がりには頭を悩ませていることだろう。昨年の今頃よりもおよそ2倍の価格をつけてスーパーの店頭にも並べられ、いまや5㎏が約4000円前後で販売されている有様である。こうなると、育ち盛りの子どもを抱えている家庭では、2杯も3杯もモリモリとおかわりする子どもたちを見て、親たちは複雑な気持ちになってしまうようである。
否、3食をまともに食べられる家庭ならまだしも、今時は満足な食事にありつけず、子ども食堂を頼りにしている子どもたちだって少なくない世の中である。「2日間なにも食べてないです…」等々をカミングアウトする子どもたちに、おかわり制限なんて人情としてもできるものではない。食料支援もまた物価高の煽りを受けて経費的な厳しさを増しているのが現実だ。
コメ不足が顕在化したのは昨年6月頃で、店頭からいっせいにコメが消えて大変な騒動になった。新米が出てくるまで数カ月間の辛抱といわれ、その間はどこのスーパーに行っても棚は売り切ればかり。わが街でも、「どこそこの店舗には置いている」「直売所の朝市ならあるよ!」等々の情報が友人知人や主婦仲間たちの間で飛び交い、まるでコメ争奪戦がくり広げられていた。5㎏=4000~5000円と倍につり上がった価格でも、店頭にあればまだマシなほうで、とりあえず購入するほかない。斯くして、それまでの当たり前が崩れてはじめて、「コメが手に入らない世の中」の到来にみなが寒気を覚えたのだった。「えっ? どうしてこんな事になってんの?」という疑問とともに――。
一方で、そんな騒動のなかもっとも強者だったのは、田舎の農家と知り合いで、以前より直販関係を切り結んでいる人々でもあった。「○○町の○○さんのコメは美味しい」ということでファンになり、市販のコメではなく当該農家からまとまった量を購入していた人々の主食が揺らぐことはなかった。農家曰く、何年か前まで農協の買い取り価格は1俵(60㎏)=1万円程度で取引され、苦労して作ったコメは二束三文で買い叩かれ、まるで利益にならなかったという。
そうした時期から1俵=1万6000円で直販していた顧客はありがたく、昨年のコメ不足騒動の最中でも市況におかまいなく5㎏=1300~1400円で提供していたのだった。聞くと、その後1俵=2万円に価格改定されてはいるものの、それでも5㎏=1600~1700円はスーパーの店頭価格よりもはるかに割安だ。たとえモリモリおかわりする食いしん坊を抱えていても、「好きなだけ食べなさい!」といえそうな安心感である。目の前にいる地元の生産者がつくったコメを地元の消費者が求めて、その信頼関係を基礎にして食卓の安心安全が保障される。それは地域内循環でもあり、こうしたローカルなつながりに勝るものはない。
それにしても令和のコメ騒動、「消えた32億杯」「21万㌧のコメはどこに隠匿されているのか?」等々、メディアでも盛んに取り上げられているが、どこかで誰かが買い占めて価格を釣り上げているというのなら、きわめて反社会的である。そして、コメ高騰の折に農家の収入にはたいして反映していないというのも考えものである。目下、ただでさえ少ない食料備蓄を放出することで政府も解決をはかるというが、仮にコメを買い占めている者がいるのだとすると、日々古米に向けて価値を下げ、かびたり虫が出たりするリスクも抱えているわけで、食料たるものを恣意的にコントロールしたツケは必ず跳ね返るはずである。
田舎の婆ちゃんはお椀にコメ粒一つ残しただけで、「目がつぶれるよ!」と目を光らせていた。昔から、食べ物があるのは当たり前ではないと肝に銘じ、生産者や自然の恵みに感謝の気持ちを込めて「いただきます」と手を合わせ、食べ終わると「ごちそうさまでした」と手を合わせてきたはずだ。それが仏教だって、キリスト教だって、食事に際してはまず感謝だったはずである。時代は21世紀も四半世紀を超えて、カネさえ出せば食べられるんでしょ――コンビニでおにぎり買ったらいいじゃん――な世の中ではあるが、当たり前が崩れているなかで、改めてわたしたちの食卓がどのようにして成り立っているかを考えるところへきているように思う。
コメ不足の根本原因は、生産費が償わないためにコメ生産が壊滅的なまでに追い込まれ、農家が次々と辞めていることにある。1億2000万人の胃袋を支えてきたのは日本のコメ農家なのに、時給10円ともいわれるような境遇におかれて後継者はおらず、一方で政府の減反政策によって作付面積も激減してきた。生産者は先祖伝来の田畑を守ろうと踏ん張ってきたが、日頃からあまり陽が当たることもなく心配されることもなかった。そして、いまになって社会全体はコメ不足の現実に脅え、震えている。昔の人々がそうであったように、食卓を支えている生産者への感謝、尊敬の念がいまこそ求められているように思えてならない。そのことが社会全体にとっていかに大切か、存立を支えているかである。
コメ不足や価格高騰を巡る一連の騒動は、食の安全保障の大切さを身をもって教えている。イデオロギーとか観念的な理屈ではなく、国民が腹を満たすことほど大切な安全保障はないのである。
武蔵坊五郎