山口県内でテレビ番組を見ていると、山口銀行のTVコマーシャルを頻繁に目にするようになった。山口市出身で卓球女子日本代表として活躍している石川佳純選手を登場させて「応援してください。山銀も私も」といわせてみたり、日本画家の馬場良治氏にも、親方になった豊真将にも「応援してください。山銀も私も」といわせている。
これらのCMを見ていつもひっかかることがある。若くしてその世界で頑張っている石川選手を応援したい気持ちは山山なのに、どうしてそこに山口銀行が割り込んできて、自分たちまで「応援」を求めてくるのか? と。銀行とは応援される側なのだろうか? 「応援」とはすなわち預金してくれという意味なのか? 等等と考えてしまう。この場合「山口銀行は石川選手を応援します!」の方がはるかに好印象で見返りを求めない印象を与えるだろうに、あろうことか選手に「山銀も」といわせてしまっては本音丸出しというか品がない…と。
明治維新を経て資本主義経済が発展していく過程で、それまでの高利貸しが銀行に姿を変え、あるいは明治政府が主導したもとで国立銀行が各地に設立されていった。山口銀行もその前身は第百十国立銀行だった。株式会社山口銀行になったのは終戦前年の昭和一九年のことだ。銀行は経済の潤滑油とか血液などといわれていた時期もあった。主役ではなく、あくまで脇役という意味合いで使われていた言葉だ。経済を動かしている産業を支えるという役割が建前としてあり、カネを持っているからといって横柄をするなら「金貸しが…」「他人のカネだろうに…」と侮蔑された。これがいまやCMまで打って「山銀も」というのだから時代も変わった。
応援する側ではなく、応援される側。脇役では堪えきれず主役になりたがる。資本主義の経済システムにおいて金融資本が支配の根幹を為し、いまや新自由主義、グローバル資本主義のもとで恥ずかしげもなく強欲に利潤を貪るようになったなかで、端くれの山口銀行もまた、我こそが主人公と思っている気質を覗かせている。
吉田充春