先週金曜日の午後はどこへ行っても大和君の生還話で持ちきりだった。7歳児が叱られて両親に反抗し北海道の山奥で壮大なる隠れんぼを試みて、大人たちの心を揺さぶったのだった。最終的には見つかってホッとさせたが、そのやんちゃぶりに驚かされ、両親が手を焼いていたのも納得させられるものとなった。1週間を1人で生き抜いた7歳児について、「肝が据わっている」「大物になるんじゃないか」等々、生還した安心感もあって褒め言葉を送る向きもある。しかし同時に、大和君の成長にとってはそれだけで片付けてはならないものも感じる。生きていたことは何よりだったが、両親だけでなく、これほどの大人たちを心配させ、振り回したことについて7歳児にわからせることも大人の責任ではないかと思う。場合によっては、本人が死んで発見されていてもおかしくなかったのだから–。
発端は他人の車や子どもに石を投げつけていたのを両親が叱り、いけないことだと本人に教育しようとしたことだった。一度は車に乗せたものの、再び車から降ろしたのも、余程のやりとりがあったのだろう。そこで折れて、他人の車や子どもを傷つけることを良しとするのか、いけないことだと毅然とした態度で挑むのか–。我が子の人間的な成長を思うが故に厳しく当たるという場面は、どの親でもあることだ。厳しさと愛情は決して矛盾しないし、一概に「虐待」などといえるものではないと思う。
子どもを叱ったり教育するのは親の責任がもっとも大きい。その責任から逃れて可愛がってばかりで、社会的規範が身についていない大人になったとき、「学校が悪い」「社会が悪い」と他人のせいにしたところで、世間は「親の顔が見てみたい」と思っている。しかし、一方では近年、児童虐待などが声高に叫ばれ、下手すると大きな声で叱っただけで通報される世の中にもなった。今回の事件でも、案の定、外野席から教育評論家を名乗る人物が「虐待」と騒ぎ立てていた。あらぬ疑いをかける向きまであった。
両親の立場になって思ったとき、今後どう息子と向き合っていくのかは大変な問題が横たわっていると思う。父親が発見後、子どもにすまないことをした…と謝っているのを見て、なおさらそのことを感じた。やんちゃでたくましい大和君の成長にとって、今回の事件がどのような影響をもたらすのか、親の権威を奪われたときにどうなってしまうのかが心配でならない。
武蔵坊五郎