先日、なじみのコンビニで買い物をしていると、レジで大きな声を出している60代くらいの男性に出くわした。ベトナム人研修生の男の子に向かって、「オイ、ベトナム!」呼ばわりして、「どうしてくれんだ!」とミスを叱責しているではないか。なんでもナナコ(セブンイレブンで使えるプリペイドカード)への入金を誤ったとかで、たいそうな剣幕なのだけど、肉まんを買い、おでんを買い、終いにこの騒ぎで、後ろの列に並んで会計を待っている人たちもとうとうしびれをきらして、商品を陳列棚に返して店を出て行くではないか。店の奥から日本人店員なり責任者があらわれるでもなし、夜だけにワンオペか? とも思ったが、誰も助けに来ないなかベトナム人研修生○○君が片言の日本語で謝っているのを見て見ぬふりをすることもできず、周囲にいた見も知らぬお客さんと数人がかりでなんとかおじさんをなだめ、店長が出てきたのは随分と時間が経ってからだった。
それから数日後、同じベトナム人研修生の○○君が再びレジ打ちをしていたので、「この前は大変だったね」と声をかけると、「あの人、厚揚げ」なのだといって笑っていた。横からアルバイトの顔なじみの日本人女性が「○○君、そんなこといっちゃダメ」と咄嗟に注意していたけれど、毎日おでんの厚揚げを買っていくらしく、○○君のなかでは「厚揚げ」という呼び方らしいのだ。「オイ、ベトナム!」呼ばわりに対して、○○君は「厚揚げ」呼ばわりしていて少し笑った。彼が挫けていないことに安心もしつつ、それでも「オイ、ベトナム!」はないだろ!と思うのだった。
コンビニでも居酒屋でも、さらに街中の中小零細企業、農漁業などの第一次産業の現場でも、近年は外国人技能実習生が増えて共に日本社会で暮らす外国人の存在が身近なものになっている。企業がアパートを丸ごと借り上げて寮にしていたり、○○語学院という名の日本語学習施設で学びながらコンビニ弁当の製造工場で夜まで集団で働いていたり、あるいは私立大学の留学生という肩書きではあるものの、実際には勤労に従事している若い外国人の子だっている。企業にはブローカーが誘いをかけに出向いてくる。インドネシア、ベトナム、ネパール、カンボジア等々、国籍もさまざまではあるが、十数年前に主流だった中国人実習生から、さらに物価の低い国々からの実習生に置き換わっているのも特徴だ。
急激な人口減少と少子高齢化のなかで生産年齢人口がますます少なくなり、「働き手がいないなら輸入すればいいじゃない」といわんばかりの労働政策であるが、要は安い賃金で働く労働力(低賃金のアンカーとして機能する)を海外から招き入れ、かつがつ日本社会における商業活動や生産活動、暮らしが回っているにすぎない。コロナ禍で国家間の往来にストップがかかるとたちまち生産現場からは悲鳴が上がったが、彼らなしには業務が回らないほど、その依存度は高まっている。しかし、日本人の意識は総じて上から目線なのだろう。「オイ、ベトナム!」ほどのムキだしではないにしても、あのおじさんのような人は少なからずいる。かつては朝鮮半島から労働力を招き入れて「チョン」などと侮蔑していたのが、21世紀は「オイ、ベトナム」かよと思わざるをえないのだ。ひょっとして何にも変わっていないんじゃないか? と他民族侮蔑の根に何があるのかを考える。
異国の地で、コンビニのレジを打っている○○君たちにとって、現金払いや携帯払い、プリペイド払いなど幾通りもの支払い方があったり、なかには公共料金の支払いやネット代金の支払いを済ませていく者もいる。おでんや肉まんを買っていく者もいれば、温めの有無も千差万別。レジ袋の有無も尋ねなければならないなど、本当に大変だろうと思う。そんな○○君は、私にもあだ名をつけているのだろうか? と気にはなるのだった。
吉田充春