広島、北海道、長野でくり広げられた衆参三選挙で自民党は全敗を喫した。事実上投げ出していた北海道、長野は織り込み済みの結果とはいえ、買収事件で辞職に追い込まれた河井案里元参院議員の地元・広島での敗北は、いかに有権者の批判世論が凄まじかったかを物語った。保守地盤の強い広島で、野党が強かったわけでもないのに、保守のなかから「今回ばかりは灸を据えなければならない」という力が明確に動いたのである。
この広島での再選挙、投票率としては30%に若干毛が生えたくらいのもので、7割近くの有権者が棄権するという散々なものだった。圧倒的多数を占める無党派層は棄権を選択し、日頃から選挙には必ず行く層だけが赴く選挙となったのである。これは常識的には盛り上がりに欠けたことを意味し、組織票を有する自公に有利な展開のはずだった。ところが、蓋を開けたら野党候補も前回選挙より得票を落としているのに、それ以上に自民党候補の得票が激減しての敗北となった。出口調査において、従来は自民党に投票してきた有権者のうち、およそ25%が野党候補に投票していたというから、これまで多少は自民党に期待もしてきた層がいよいよ三行半を突きつけ、“自民党離れ”を起こしていることが敗因だったのである。
野党候補からすると、自民党の敵失のおかげで棚からぼた餅のように転がり込んできた当選である。しかし、全有権者のなかでの支持率はダメダメだった自民党候補と肩を並べる10%台であり、こちらも足下が盤石なわけではない。恣意性を排して俯瞰して見てみると、野党が強かったのではなく、自民党が弱かっただけという事実が浮かび上がってくる。誰かが相談したり連絡したわけでもないのに、支持基盤の4人に1人が見限り、なおかつ棄権ではなくあえて野党候補に1票を投じる、つまり自民党を当選させまいとする怒りの投票行動をとったことに驚かされる。これは厳密には“自民党離れ”以上の現象といえる。
それにしても、今回の広島における再選挙ではおよそ7割の有権者がそっぽを向いて投票所に足を向けなかった。それ自体、政治不信の惨憺たる状況をあらわしている。こうした低投票率について、毎度のように「民度が低い」とか「選挙に行かなければ政治は変わらない」といった批判や嘆き節の声が上がるのも事実である。それは特に野党支持者のなかから聞こえてくるケースが大半のように感じる。だって、自民党にとっては低投票率の恩恵で勝ち逃げできているわけで、非難する理由などないからである。むしろ願っているといっても過言ではない。
では、如何ともし難い政治不信が渦巻き、投票に行かない人々が大多数を占めているなかで、これらの政治に幻滅し、距離を置いている人たちとどうつながり、その思いを代弁していくか? を考えている政党がどれだけいるというのだろうか。日本の政治状況を揺り動かしていくという点では、このそっぽを向いている有権者が最大の多数派を占めている訳で、超少数派になりつつある野党共闘なるものよりも、これらの力を束ねていくことが政党にとっては飛躍的な伸びしろを生み出す関係といえる。5割からの支持とまではいかなくても、3割の支持を得るなら腐敗堕落した自公を上回り、選挙区をひっくり返していける可能性だってあるのだ。選択外と見なされている側が思うようにならないからといって、上から目線で「民度が低い」などと嘆いているのを見ると、だから永遠に選択外なのだろう…と思うし、受け皿としてコミットできるように変化、努力しない者は、そうした自らが見下した民度から永遠に相手にされないだろうと思うのである。 武蔵坊五郎