東日本大震災から10年目の3・11を迎えた。2017年に取材して以来、4年ぶりに現地を訪れた。向かったのは三陸沿岸部。岩手県から宮城県にかけて南北に連なる街のほとんどが未曾有の地震と津波による被害を受け、その街の人々の暮らしや生業、そして家族……。あまりにも多くのものが失われた。あれから10年。すべての復興事業に投じられた予算の総額は32兆円。岩手、宮城、福島3県42市町村のうち実に9割で震災前より人口が減り、減少率は6%で全国平均の3・5倍のペースとなっている。巨額の予算を投じて復旧させてきた現地はどのような姿になり、そこで暮らす人々の復興はなしとげられたのか。この10年を振り返るにあたり、「誰のための復興なのか」をテーマに取材をおこなった。取材を続けるなかで被災地の10年目の現在を目にし、人々の思いに触れて自分自身が感じたことをまとめてみたいと思う。
津波被害を受けた沿岸部では、これまで経験したことのない巨大な震災・津波被害によってほとんどの街が流された。
住まいを失った人々のなかには避難所から仮設住宅へ移り、みなし仮設、災害復興住宅など何年もかけて転々とした人も少なくない。岩手、宮城では今年度をもってようやく仮設住宅がすべて解消されるが、福島では10年経っていまだに仮設暮らしの人もいる。
現地から離れて暮らしている私たちにとって、今も仮設暮らしをしている人がいるということは、なかなか想像もつかない。だが、取材の過程で仮設暮らしのほんの一片を体験することとなった。
ある地域で宿泊したホテルは、おそらく現地の土木作業員用に建てられたもので、プレハブ造りだった。二階建てのアパートのような建物が広い敷地にA~D棟まであり、管理棟でチェックインを済ませ鍵を受けとる。ホテルの一室にはベッドがあり、バス・トイレも付いている。一般的なビジネスホテルと変わらない設備で、暖房に加え電気ストーブも置いてあった。
取材が終わり、そのホテルに帰って夜中に部屋でその日取材した内容をまとめていると、とにかく足下が冷える。この時期、外の気温は日中でさえ氷点下まで下がっており、プレハブの建物は外気の影響を受けやすい。イスに座っていると足の裏から膝下までが冷たくてじっとしていられなくなる。「このために電気ストーブが置いてあったのか」と気づき、足下を温めながらその日の記事を書き進めた。自分が感じた不便さといったらこれくらいのことなのだが、仮設で暮らしていた人たちもこれ以上に厳しい環境の下で何年も生活していたのだと思った。
つくり替えられる故郷 巨大防潮堤に違和感
津波被害にあった地域の多くは戻りたくても家を建てることができないよう規制された。住民が何年もの間高台や仮設住宅、内陸部のみなし仮設などで暮らしているうちに、あちこちで国をはじめとした行政主導の大規模復旧工事が進められていった。
沿岸部の街では、震災から10年を経て、いかにも人工的な盛り土による街のかさ上げや、浸水地域での居住施設の建設規制、「必要ない」との声が多数あるなかで巨額の資金を投じて建設された巨大防潮堤がようやく完成しつつある。
こうした大規模な工事は、国や大企業による資金・人員・資材の投入がなければ進まないものだ。地元の人々も「国にしかできない仕事だから」と感謝もありつつ、自分たちの故郷が手の届かない大きな力によっていわば「ゼロから別のものに作り替えられる」ような寂しさというかもどかしさというか、「これじゃない」という思いを抱いていることを会話の節々で感じた。
例えば、防潮堤の話題にしても三陸地方には「津波てんでんこ」といった言い伝えがあるように、地震のときにはとにかく一人でもいいから津波から逃れるため高いところに一目散に逃げること。それが歴史的に巨大津波被害にあいながらもこの地で何代も生業を営んできた人々に染みついた感覚なのだ。10年前、津波が軽々とこえていった堤防もまた、今から60年前のチリ沖地震後に高くされたものだった。津波から「守ってもらう」ための設備に対し、そもそも地元の人たちは完璧を求めていないのではないかと思う。
取材をしていても「防潮堤があるから安心」という人はいなかった。地元でも「海が見えないのは気持ちが悪い」といわれ、理屈ではなく感覚的に相容れない部分があるのだと感じた。しかし、今ほとんどの沿岸地域は10㍍近い防潮堤に遮られ、陸から海は見えない。なかには、巨大防潮堤がない浜もあった。この地域では、住民全員が防潮堤建設に反対しなければ事業を止められないということで、みんなで話し合って意見を一致させたのだという。被災して地域のみんながバラバラに暮らすなか、ここまでしないと事業が勝手に進められてしまう。
防潮堤にとどまらず、現実に進められてきた復興事業と住民の感覚とのギャップは、かさ上げや道路、住宅整備など多くのハード面の復旧に共通していえるものではないだろうか。しかし一方で住民にとってはここまで手厚いハード面の復興を「やってもらった」から声には出していいにくい面もある。さらに何年もかけて大規模公共工事が進むなかで、結局は「いろいろいわない方が早く終わる」と地元の人々が口出しできない雰囲気も次第に強まっていったと語られていた。
これは個人的な感覚だが、石巻市雄勝町では、もともとあった川をせき止めて人工的に作り替えた川に流れ込ませ、その河口と護岸を9・7㍍の巨大な防潮堤と法面で囲い込む工事がおこなわれていたのを見たときに、「まるで実験台じゃないか…」と感じた。この工事は4年前に取材に来たときにもおこなわれており、まだ終わっていない。これだけ時間とお金をかけても、川の周りに家を建てる人はいない。そもそも浸水地域ということで家は建てられない。では、なぜここまで手厚い工事が必要なのか? 誰もが疑問を抱いて当然だと思うが、そんなことがほとんど人目につかない山に囲まれた僻地でひっそりと進められている。「誰のため、何のための復興なのか」という疑問は10年を経た現地を目にし、いっそう強くなった。
また、津波で被災した土地が更地のまま放置されている区域が各地に多数あることも気になる。なぜなら、家を建てることが制限され、誰も住まない更地が頑丈な防潮堤でしっかりと守られていることにとても違和感を覚えたからだ。そんな土地が今後何に利用されていくのかは注視していくべきだと感じている。公園? 農場? はたまた太陽光発電とか…? その結果によって、この土地が誰のため、何のために創り出されたものかも見えてくるはずだと思う。
街作りは地元民の手で 全国に感謝しつつ
被災地では、全国から駆けつけたボランティアやNPO法人などの援助によって、多くの人々が励まされた。取材する各地でも、山口県の職員が行政支援の人員派遣でサポートしてくれたことや、手弁当で山口県からわざわざボランティアに駆けつけてくれた人がいたことなど、今になっても現地の人々からお礼をいわれることが何度もある。
全国からの温かい支援が被災地の復興を支えてきたことを実感する一方で、手厚すぎる「サポート」や多額の補助金などによって、仕事や暮らしなど、生業の復興を遅らせてしまう側面があることも被災地復興を考えるうえでの教訓として語られていた。
陸前高田市では震災後、たくさんの人が県外からボランティアで支援に駆けつけ、NPO法人なども活躍してバラバラに暮らすようになった住民たちの交流の場をもうけたり、今後のまちづくりに携わる事業者もいた。
今も市内で地域交流のサポートをしている女性に話を聞いたときも、震災後たくさんの支援があったなかで、ボランティアをおこなう支援者自身が主人公になってしまった部分もあったことを語っていた。「正直にいうと地元の者がお客さんのような扱いになり、“やってください”と他力を頼ることで前に進むための力を失ってしまった。道路や建物などハード面の復旧は、いってしまえば誰にでもできる。でもこれから自分たちが暮らすまちづくりは地元の住民の手によってしか成り立たない。これはどんな被災地でも同じだと思うが、どんなに苦しくても忘れてはいけないことだと思う」と。
また、以前取材した岩手県宮古市にある重茂の漁業関係者はこんな話をしてくれた。震災以降、津波で流された遺跡を探して3時間働いて8000円などの手当を得る副収入的な「復興」事業が登場した。簡単にお金が手に入るような仕事へ人材が流れてしまい、漁協が運営する加工施設で働く住民は震災前に150人いたが、60人ほどに減り、働き手が戻らない……と。だが、それで本当の生業の復興は成し遂げられるのか? 「遺跡掘りで簡単に収入が得られるような話が舞い込んでくる。だが、重茂の復興は自分たちが一生懸命働いてとった水産物を活かして、作ったものを消費者に食べてもらって、初めて成し遂げられるものだと思う。いつまでも“被災者”のままではいけない。働かずして真面目に働くよりも多く金がもらえるという、まるで生活保護のような矛盾したものに頼っていてはいけない。元気に働ける人は8時間働いて、自分の仕事で稼がないといけない。いつまでも国民の税金のお世話になるわけにはいかない」と話していた。
福島でも、早く事業を再開させた人ほど、その分収益があるため原発事故の補償金額が削られた。これも同じことだと思う。「補償金が減るくらいなら」と仕事をせずに補償金をもらうことを考える人が出てくるのも当然だ。地震・津波被害に加え原発事故によって地元には住めず、店や会社は潰れたり、漁船も流されたり市場がなくなったりしたなかで、再起をかけて働くことの方がエネルギーが必要だ。
5年前やその翌年も被災地を取材してきたが、大規模な公共工事ばかりが進む一方でその地に人々は戻らず、もしくは戻ることができないまま生業の復興が後回しにされていることを各地で目にしてきた。その背景には被災地が前に進めない力が直接的、間接的に働いている実情があり、現地の人々に話を聞くと、こうした問題意識を持っている人が多いことに気づく。
しかし、やはり国の税金の恩恵や県外の人々の“善意”を受けている以上、声に出していいにくいという複雑な矛盾もあるのではないかと感じる。
下向かず前に進む覚悟 本当の思いを全国へ
しかし、当事者が声にしにくい声こそ、全国に伝えていきたいとも思うし、取材の過程で出会ったたくさんの人たちが「伝えてくれ」と期待して思いを託してくれていることも強く感じた。
取材はほとんどアポなしの飛び込みだった。現地の人々のなかには地震や津波で家や店や会社が津波で流され、家族を亡くした人もいる。それでも突然山口県から来た者に本音で思いを語ってくれたり、今の被災地の現状を教えてくれる。今回の陸前高田で取材をおこなっている最中、ある店主に「メディアは楽をしている」と厳しい言葉をもらった。その男性は、これまで一度インタビューで目立ったことを話したり、印象的なエピソードを話した人のところに、狙い撃ちで次から次にインタビューをしていくメディアの姿をこの地で何年ものあいだ目にしてきたそうだ。店主自身、津波で家族を亡くしている。「本当に悲惨な体験をした人のなかには、なかなか簡単に他人に話せない人もたくさんいる。でも、そんな人たちにこそ本音を聞いて、全国に伝えてほしい。あなたたちメディアにはもっともっと足を使って被災地の本当の声を聞いてほしい」と、涙をこらえながらかすれるような声で話してくれた。
みんな、まだまだ「復興」を感じられていないと思う。水産加工業者も水揚げが戻らないなか、社屋を復旧するために借り入れた借金の返済に追われている。ハード面の復旧が遅れてきた石巻市の牡鹿半島ではいまだに10年前の地震や津波で崩れた道路や護岸の工事が終わっておらず、道を大型ダンプが行き交う日々が続く。
震災から6年目の4年前も、そして10年目の今年も、取材が終わって別れるときの言葉は「まだまだ、これからだよ」だった。どの地域でも、初めて会う人も、四年ぶりの人も、それはみんな同じだ。「10年目」という節目ではあるが、現地の人々にとっては今もこれからも変わらず復興を目指す日々が続く。「これからだよ」という人はみんな、小さく笑っていた。寂しさとかもどかしさとか複雑な感情もひっくるめたうえで、決して下を向かずに進む覚悟みたいなものを感じた。ある加工場の社長がいった「下を向いているけど前のめりで必死にやるしかないよ」という言葉が忘れられない。
これまで東北の人々が過ごしてきた10年前の3・11からの年月を、たった1週間の取材ですべて知ることなどできない。それでもできる限り多くの人々の経験や思いに触れ、事実をありのままに伝えようととりくんできた。取材に協力してくださったたくさんの方々に感謝するとともに、今後も現地のありのままの姿を、本当の思いを全国の人々に伝えていかなければという責任を感じている。「足を使って聞いてほしい」という言葉を忘れず……。(記者・鈴木)
こんにちは。毎回、被災地レポートは大変参考になっています。今日は石巻市雄勝町を経由して半島北部の名振(なぶり)地区と船越地区を見てきました(8年ぶり?)。28世帯の雄勝地区に高さ6.7mの防潮堤を張り巡らしても、その恩恵に預かる人(家屋)はほとんど無いように見えました。売店で売っているホタテ貝柱は「青森産」、あじの干物に至っては「ベトナム産」というお粗末さ…。それと、名振地区には今も民家が建ち並んでいましたが、隣の船越港の真ん前に有ったいくつかの民家は全て撤去されていて、きれいにアスファルトが貼られている光景に愕然としました。複雑な思いを抱きながら、帰りは三陸道で釜石から花巻ルートを使いましたが、途中「横浜ベイブリッジも顔負け」という感じの気仙沼湾横断橋を渡る時には「こういう事をやってほしかったのではない」という思いがこみ上げてきました。国が意図したのかどうか「住む人々が少なくなってしまった(または、集落が消えた)」のは大きな失敗だったと思います。