東京五輪はスポーツの祭典というよりは恥さらしの祭典かと思うほど次から次に疑惑が出てきて、みっともない印象ばかりを与えている。張り切っているのが選手ならまだしも、利権獲得に浮かれた者たちが飛んだり跳ねたりして、前座から台無しにしてしまっているのである。エンブレム盗作とやり直し、メインスタジアムの設計やり直しに続いてIOC委員の買収疑惑まで飛び出し、それをフランス当局が捜査に乗り出して世界で報道され、「カネで五輪を買った日本」として認知されようとしている。商業主義に侵された近年の五輪にあって、開催国の裏技は大概そういうことなのかもしれない。しかし、このまま世界に向かって恥をさらすだけなら、いっそのこと返上して五輪予算の2兆円を東北や熊本の被災地復興に費やした方が賢明だ。
一連のIOC買収疑惑報道と関わって曖昧にできないと感じたのは、元プロレスラーの文科相が、招致が争われていた当時IOCメンバーが福島の汚染水問題を懸念しており、「それを逆手にとった。“今こそ、福島の子どもたちに希望を与えるためにも東京五輪をやらせてくれ”というストーリーをつくることになった」とのべていたことだ。福島の子どもたちをダシにして東京に五輪を誘致するという思考回路の異常性について自覚がなく、安倍政府の端くれとしてつい口を滑らせたのだろう。福島の子どもに「希望を与える」のは、あくまでストーリー(物語)なのだ。
「チェルノブイリの子どもたち」といえば、甲状腺癌で苦しんでいる姿に世界が同情を寄せてきた。その二番煎じで「フクシマの子どもたち」を売りにして世界の同情を買い、汚れた大人たちが五輪をものにする。福島の子どもたち、福島県民をあのような目に遭わせたのは、ほかならぬ原発を54基も日本列島につくってきた歴代の自民党政府であるにもかかわらず、事故後も有効活用するのである。このような言葉を教育を司る文科相が平然と口にしていることに唖然とさせられる。
福島は東京のために電力を作り続け、その挙げ句に爆発事故で酷い目にあった。東京のためにダシにする構造はその後も続いている。そして「福島は完全に(汚染水が)コントロールされている」の大うそから始まった五輪狂騒曲もなんのことはない、選手外の欲望がすっかり汚染してしまって、完全にコントロールできない状況に直面している。福島の子どもたちが一番望んでいるのは故郷の再生に違いない。 武蔵坊五郎