東京都知事選は前回あれほど小池劇場を煽っていたのとは打って変わって、今度は逆にメディアが見事なまでの黙殺を貫いている。視聴率1%で100万人に影響力を持つなどといわれるテレビでもほとんど扱っていないし、新聞報道も似たようなものだ。各社に共通指令でも出ているのかと思うほどシレッとしていて、公約実現ゼロだった4年間の都政についての検証だったりは皆無。「どうせ小池百合子の一人勝ちでしょ」的な雰囲気を振りまいているような印象なのだ。そして小池百合子ときたら、公開討論にも出ず、選挙カーによる街宣もまったくやらず、雲隠れして有権者の前に出てこない。いやはや、候補者自身が有権者へのお願いすらせず、汗を流すこともなく首都圏トップの座を得ようなどという、見たことも聞いたこともない前代未聞の選挙模様なのである。こうしてメディアが黙殺するのと歩調を合わせるようにして、自民、公明、補完戦力である連合が支援する小池陣営がステルス選挙を展開し、組織票に加えて一定の無党派層を取り込めば安泰というシナリオが、一連の不可思議な選挙模様からおぼろげながら見えてくる。
前回は確か自民党都連の「ドン」こと内田茂(当時幹事長)と喧嘩しているような演出で大いに盛り上げ、小泉純一郎の「自民党をぶっ壊す!」の二番煎じみたいな事をやっていた。それは自民党や公明党の一定の支持基盤が小池に流れることを確信したうえで、“自民党とたたかう小池百合子”をプロモーションするという、メディアを通じた無党派層取り込みの選挙テクにほかならなかった。世間が自民党離れを起こす時、必ずといっていいほど緊急避難的に第二自民のような新党がポッと立ち上げられ、それこそいまや影も形もなくなった希望の党なる1ポイントリリーフとしての政党に世間の視線を釘付けにして自民党とたたかうポーズをしつつ、中身は自民党そのものという欺瞞が、その後の「都民ファーストの会」→「希望の党」の流れであった。実際に希望の党は自民党の別働隊として民主党解体の先兵としての役割を果たしただけであったし、解散総選挙を目前にしたタイミングで、あの瞬間に必要だったというためだけに作られたのだろう。そのせいか、フェイクの役割をこなした後はそれほどこだわりもなく分党して、いまや「希望の党? なんでしたっけ?」状態なのである。使い捨てドラマの脚本よろしく、たった4年前の事なのに皆の記憶から消え去っているほど、陳腐な劇場型ドラマだったのである。
“自民党とたたかう小池百合子”演出の際には、ショスタコーヴィチの交響曲第五番第四楽章なんぞを盛大にBGMとして活用し、ティンパニーが激しく鳴り響くなか迫真のアナウンスで都議会のドンとの大喧嘩を面白おかしく扱っていたメディアは今回、既存政党すべてを向こうに回して、それこそ自民党及びその補足政党までひっくるめて挑戦状を叩きつけ、首に紐がかけられることを拒んで挑んでいるれいわ新選組・山本太郎の挑戦を黙殺したいようである。立憲民主を離党した須藤元気の合流はじめ、メディア的には盛り上がるポイントも目白押しなのにである。あくまで寝た子を起こさない選挙に徹し、無党派層がワッと動き出すのを警戒している。いわばしらけムードの演出である。劇場型と黙殺型--。基本的にはこの二つが近年の選挙演出の特徴である。黙殺されるということは、それだけ存在感があることの裏返しでもある。目立ってもらっては困るからにほかならない。
それにしても、メディアの堕落は今にはじまった話ではないが、幹部が首相に寿司を奢られるなど、要するにエサを与えられて飼い慣らされたメディアになるくらいなら、権力とはしっかりと「ソーシャルディスタンス」を保ち、書きたいことを自由に書ける野良犬メディアくらいのほうが気楽である。誰からも首に紐などかけられないし、飼い主などいない。ご主人様から命令されて、ジャーナリズムとして「ステイホーム」(報道機関を標榜しながら見ざる聞かざる言わざる)をしているなど、まっぴらゴメンである。 吉田充春