そろそろ自宅のトイレットペーパーが残りわずかまで追い込まれ、少しピンチかもしれなかった。ただ、まぁ世の中にはウォシュレットもあるし、ペットボトルで手づくりウォシュレットを作ったら持ち歩きだってできるし、新聞紙(クシャクシャにしてほぐしたら柔らかくなるんじゃないか?)だってあるじゃないかとも思う。世間には最終的にはインド式でも構わないというメンタルが強めな人もいれば、葉っぱで拭くか! などと半ば開き直っている人だっていた。「それで死ぬわけでもあるまい」と――。清々しいほどの割り切り方である。不安にさいなまれて毎日行列に並ぶ(それ自体が感染リスクとなる)よりも、もうなるようにしかならないのだから、売り棚に並ぶのを落ち着いて待つよりほかないのである。とはいえ、日頃よりもローリング回数を少なめにしたり、みんながかなり繊細な神経を要してはいた。「おたく、あと何ロール?」なんて会話が職場の同僚や友人知人との間で交わされ、余裕のある人が一ロール融通してあげたことなど、それぞれのコミュニティでの助け合いの話も耳にした。それにしても、お尻も満足に拭けない世の中なんて、本当に勘弁してほしいものである。
今回の騒動はデマからはじまったとはいえ、なぜにトイレットペーパーなのだろうか? という思いがしてならない。マスクがなくなるのはわかるとして、トイレットペーパーを我先にと買いまくる群集心理の深層にはいったいなにがあるのかと。不安が不安を呼び、それほど不安でない人でもコンビニ入り口付近の一番目に入ってくるマスク・ティッシュコーナーやスーパーの売り場が空っぽになっているのを見せられるとインパクトは絶大で、「え? 何事? 買わなきゃ」という意識が伝播していったのかも知れない。誰しもが毎日のように営んでいる排泄行為が突然危機に直面するかもしれないという事態に遭遇して、過剰な自己防御意識が働いてトイレットペーパーの買い占めに至ったのだろうか…。社会不安とお尻の不安問題がどうつながっていくのかという疑問である。オイルショックのときもトイレットペーパーの買い占めだったというし、なぜいつもトイレットペーパーなのか? と思うのである。一種のパニックの最中ではあるが、やはり、日常生活に欠かせないもっともデリケートな営みであり、清潔であることを誰にも邪魔されたくないからこそ、その度に現実的な心配事として浮上するのであろうか。
トイレットペーパーは明治時代に入ってから外国から輸入していたが、その後、国内でもパルプが発達して生産されるようになり、現在のロール状の原形ができたのが大正期なのだという。その歴史はまだ100年そこらである。江戸時代は落し紙といって再生紙や書き損じた紙を用いていたようで、それ以前になると縄や木の棒などで拭いていたそうである。庶民のなかにはそれこそ葉っぱで拭いたり、インド式をやる人もいたことだろう。そんな時代から比べるとはるかに進歩を遂げ、現代はトイレットペーパーといっても柔らかいものから固めのもの、ダブルにシングル、香りつきなどよりどりみどりである。そしてウォシュレットまで普及して、はるかにお尻に優しい社会になった。しかし、ある日突然買い占めが起きると、それまであたりまえだった日常は脆くも崩れ去り、私たちはお尻もろくに拭けない状況に叩き込まれるのである。
今回の騒動を見て戦慄するのは、これが食料だったらどうなるかである。それこそ自給率が4割を切っているなかで、世界的な食料危機などに見舞われた際は供給能力が乏しい分、日本社会はいちころである。メーカーに在庫があっても手に入らないトイレットペーパーとは訳が違う。色々な意味で、一見豊かそうに見えるこの社会の脆さについて捉える必要があるように思う。吉田充春
我先にと、他人を押しのけて買い溜めに走る行為は、強烈なエゴイズムの発露に他ならないでしょう。この国の人びとは皆、利己主義が骨の髄まで染み渡った、化け物になったかのようです。大げさかもしれませんが。
品薄のために紙が手に入らなくなって本当に困る人が何処かに出ても、それが自分と無関係な人なら知ったことではないし、そういうことに思いも及ばない、また容易にマスメディアに、噂に扇動される愚劣な「層」は、少なくともオイルショックの頃から居たようですが。
物質的に「のみ」豊かになって、表むき助け合わなくても生活できる世の中になって、それがために他人を思いやる人間らしい心は消え、荒んでいったと、この40年ほどの経験から、そう感じます。
また日頃危機感ゼロで投票にも行かない「大勢の」人たちと、今回、ヒステリックに買い溜め、買い占めに走っている者たちが、私には重なって見えて仕方がありません。
こういう人たちは、この先運よく生き延びたとして、似たような事態に遭遇すれば、また同様な愚行を繰り返す、ような気がします。