国民の視線にさらされている国会が、安保法制の強行採決をめぐって茶番劇を演じてきた。いかにも揉めているような素振りをして「攻防」に時間を費やし、落としどころははっきりとしていた。頭数だけでいえば、自民、公明だけでいっきに採決することもできた。ただ、こうでもしなければ国民世論に対して示しがつかない、憤激の世論を少しでも和らげたいという、安倍政府の恐怖心を映し出している。群衆が「安倍はやめろ!」と叫んでいる国会前には8000人もの警官が動員され、まるで兵馬俑のように立ち並んで睨みつけた。さながら、警察が国会包囲に来たのかと思うような光景だ。為政者の側は大衆行動に火が付くことをもっとも恐れているのである。
目先の局面だけ見て、米国との約束を果たしたといって喜んでいるのだとしたら相当に脳天気で、次に自民党及び公明党に待ち受けているのは総選挙での大惨敗である。強行採決は自民党の終わりの始まりでしかない。同時に、こうした売国政治を叩きつぶさなければ日本社会の未来は開けないこと、民主党であれ、自民党であれ、権力につくと同じように対米隷属の政治を実行し、官僚機構、政治家、メディアなどあらゆる権力機構がアメリカに抑えられている現実は70年前から何も変わっていないことを国民に見せつけた。この対米従属の鎖を断ち切ることこそもっとも大きな政治課題であることを実感させるものとなった。
アメリカのために身を捧げ、権力ポストを失うことも厭わぬ、為政者どもの献身性といったらない。ただ、自民党の終わりは、間接統治しているはずのアメリカにとっても駒が使い物にならなくなり、支配の一角が崩れることを意味している。これほど国民的行動に火をつけてしまったのに、この先どうして戦争動員するというのだろうか。いまや安倍晋三が戦争の指揮棒を振るったところで「オマエが行ってこい!」の空気が支配的だ。権威がまるでなく統治を崩壊させているのである。
この間、発展してきた安保法制反対、戦争反対の世論の高揚は「連休を過ぎたら忘れる」ような代物ではない。安倍政府は確か、1年前に沖縄で強面をやって県民を怒らせていた。そして知事選、衆院選とボロ負けを喫した。1年たってみると大衆的な決起は全国津津浦浦へと爆発的に拡がり、みなが覚醒して立ち上がっていった。強面をやったはずが人人を怒らせる放火魔のような政府なのだ。
強行採決は終わりではない。敗北でもない。戦後レジームすなわち対米従属構造との斗争の始まりであり、長年の封印を解いて日本社会は胎動し始めた。火に油を注いだのが安倍政府なら、たいへんな貢献である。