次期学習指導要領で小学校5・6年生を対象に英語が正式教科となり、11歳、12歳の子どもたちが2年間で習得する英単語数は600~700にもなるという。現在、中学校では1200単語、高校では1800単語のあわせて3000単語を習得させているが、中学校段階の半分以上を前倒しして小学校段階で覚えさせ、さらに疑問詞や代名詞、動名詞や助動詞、動詞の過去形などの表現も学ばせるのだという。そして上級学校に進学すると、中学校で1600~1800単語、高校で1800~2500単語にまで増やし、高卒段階の習得単語を3000からいっきに4000~5000に引き上げるという。国を挙げてこれほど英語学習にムキになっているのは何のため、誰のためなのだろうか。
「英語ができるオレは格好いい」の風潮なのか、はたまた英語熱の微妙な浸透による影響なのか、最近は何でもかんでも日本語の会話のなかに英単語を交えて話す人が増えてきた。一昔前ならルー大柴の芸風として笑われていたものが日常生活のなかで当たり前となり、いつの間にか意味や印象も脳味噌にすり込まれているから不思議だ。その度に「日本語でいえよ」と思いつつ、みずからが無意識のうちに使っている単語もままある。日本語で文法を使いこなしながら会話しているのに、単語は英語という奇妙な取り合わせである。
企業ではコンプライアンス(法令遵守)やガバナンス(統治)といった言葉が当たり前に使われるようになり、会議や打ち合わせはミーティングなどという。選挙になれば公約といえばいいのにマニフェストといい、主導権を握ることをイニシアティブを握るといい、スターバックスに行くと、大中小でなくとも、せめてS・M・Lでよかろうものをスモール、トール、ラージ、グランデからサイズ(大きさ)をチョイス(選ぶ)し、「テイクアウト(持ち帰り)ですか?」と聞かれたりする。アイドルのAKB48は「アキバシジュウハチ」ではなく「エーケービー・フォーティーエイト」。昼飯に行こう→ランチに行こう、心から尊敬している→マジ・リスペクト、潜在能力を秘めていますね→ポテンシャルが高いね、売り切れています→ソールドアウトです--。日常のなかに浸透している英単語はまだまだある。そして、暴力亭主→DV男(ドメスティックバイオレンス)、コストパフォーマンス(価格性能比)→コスパ、キャパシティ(収容能力)→キャパなどのように短縮して独自の和製英語化を遂げているものもあったりする。そして、昔の人がDをデーといおうものなら笑い者にするような風潮すらある。英語ができるものがすごいという価値基準から、そうでない者を卑下するのである。
さて、話を本題に戻すと、常用漢字すら習得できていない小学生が、漢字の筆記学習(毎日習慣づける)に加えて英語の単語学習(スペルを何度も筆記したり、反復学習するほかない)までこなし、これまで中学校1年生段階で学んできたはずの学習量を受け止め、消化できるのかは甚だ疑問だ。恐らく無理な話で、取り残されて置いてけぼりを食う子どもが続出することは疑いない。よほどの秀才でない限りは、家庭での自学による蓄積がなければ英単語も漢字も覚えられるものではなく、そのために費やす学習時間分ほどその他が疎かになる関係だろう。現状でさえ読み書き計算ができず、そのまま放置されている子どもたちが多いなかで、一部の「できる子」とその他の多数を占める「できない子」との溝はさらに深まることが予想される。
母語である日本語の読解力が落ち、テストで文章題の意味が理解できない子どもが増えていることがニュースになった。文章力についても、句読点の打ち方やてにをはの使い方、接続語の使い方などに不自由な子どもたちが増え、大学では卒論を書こうにも起承転結や文章のつなぎ方がわからない学生も増えているという。読書量の圧倒的不足など要因は様様あるだろうが、日本語に不自由であるというのが特徴だ。
英語でもスペイン語でも中国語でも、語学に堪能であることにこしたことはない。何カ国語も操れるような人をみると、その努力に大いに感心する。しかし、現在のように母語を押しのけてでも政府挙げて英語学習に傾斜しているのは、植民地従属国としての仕様を完成させ、英語への反射神経を高め、外資に牛耳られたグローバル社会に適応するためでしかない。母語や母国から切り離れて世界を漂流するコスモポリタン(無国籍主義者)の道を進むという政府の宣言なのだろう。 武蔵坊五郎