子どもを育てたことがある親ならだれしも、口でいってわからないときは「お尻ペンペンよ!」とまず発してみたり、それでもわからず屋なら実際にペンペンしたり、少なからずあるものだ。不意に道路へ飛び出したり、友だちにケガをさせたり、その行為が危険であればあるほど咄嗟にペシッと叩いたり、真剣勝負で我が子に向きあうのは、いかに危険であるか、いけないことであるかを強くわからせるためだ。みながみな手が出るかどうかは別として、それらの一瞬、一瞬に親はどう反応するのか、モラルや物事の善し悪しをきっちりと教えていく過程は、子どもの成長とも関わって疎かにできない。これらは他人に外注できるものではなく、「教師が悪い」「学校が悪い」「保育園が悪い」「社会が悪い」と責任転嫁したところでどうにもならない。周囲にとって所詮は他人の子であって、口やかましい近所のおじちゃんやおばちゃんがいなくなった昨今では、むしろ叱って善悪を教えてくれる方が逆に有り難いとすら思う。
幼児期を脱して小学校高学年や中学生にもなると、子どもとて知恵もつけていっぱしだ。この時期に親に殴られるのは余程のことで、大概のことをやらかして逆鱗に触れたときだろう。子に手をあげる親の側にも覚悟が必要なものだ。人の道を外れないように叩いてでも厳しく教える、恨まれてでもわからせることが必要だと判断した場合に、心を鬼にして鉄拳制裁を加える親だっている。親の心子知らずで、子どもはいつも自分本位であったり勝手気ままなものだが、必死に怒っていた親の気持ちが、自分が親になってみて身に染みてわかった--等等の話は枚挙に暇がない。親子の本気のぶつかりなどあたりまえに起こりうるのだ。褒めるときもあれば、励ます時もある。育てていく過程では山あり谷ありなのが当たり前である。
さて、「しつけ」名目の児童虐待事件があいついでいるとして、政府は19日、親が子どもに体罰を加えることを禁止する児童虐待防止法などの改定案を閣議決定した。何をもって「体罰」と判断するのか分からないものの、ここまでくると極論も過ぎる。確かに最近、頻繁に報道されるようになった児童虐待はひどいものが多い。子どもが死ぬまで暴力を振るうなど、親失格で異常きわまりない事態である。精神的に追い込まれていた…、相手の連れ子だった…、育児に疲れた…など、抱える事情は様様だが、子育てする余裕を失った末であったり、家庭生活の崩壊状況が背景にあるケースが少なくない。貧困で心が荒んだり、どうしようもない袋小路に迷い込んで子どもに向いていたりもする。しかし一方で、親が子どもを虐待する家庭ばかりではなく、生意気な子どもたちと丁丁発止をくり広げながら、一生懸命に育てている家庭がほとんどだ。いわゆる「体罰」「虐待」とはいえないものまで十把一絡げにして法律で縛り上げるなら、あまりにも乱暴である。
ことは「体罰禁止」だが、そのことがもたらす効果は親なり教育者の指導性や権威を否定し、萎縮させることである。法改定によって児相や警察の個別家庭への介入は容易になる。そうして学校で悪さをしても先生が叱らない、家庭でも親が叱らない、地域でも親が逆上してきたら面倒臭いので叱らない--。叱ること、すなわち教育することがはばかられる風潮が支配的ななかで、本気の大人たちを相手にしたことがないまま成長した子どもたちが、例えばバイトテロのような馬鹿げたことをしでかした場合、今度は企業が膨大な損害賠償を請求して、合法性に基づいて親子ともども「虐待」するというのである。
親が子を殺し、子が親を殺すなど、社会の荒廃を象徴するような事件が絶えない。親子の愛情や信頼が切り裂かれている状態をどうにかしない限り、法律で縛りをかけて解決するような代物ではない。 武蔵坊五郎