(1955年4月)
戦争は、われわれの生活のうえにいいしれないいたましい傷痕を残し、われわれの郷土に無残な荒廃をもたらした。人々は荒廃のなかから立ち上がり、平和で豊かな美しい郷土を建設してゆくために、不断の努力をつづけてきたし、いまもつづけているが、しかし、10年もたった今日、いぜんとして明るい展望はひらけない。
労働者は安い賃金と労働強化に苦しみ、不断に失業の脅威にさらされている。農民は土地が少ないうえに、生産費のつぐなわない農産物価と重税にあえぎ、中小商工業者は不況、重税、金融難で倒産の危機にさらされている。不況の波は容赦なくおそいかかり、失業者はどの町にもどの村にもどんどん氾濫している。労働者、農漁民、市民のすべてに生活の困難はいよいよ加わってきた。そのうえ、植民地的退廃がまき散らされ、民族文化の健全な伝統をむしばみつつある。それにもかかわらず、だれでも知っているように、憲法にそむいて再軍備が公然とすすめられ、軍国主義の妖怪がまたしてものさばりはじめた。原子戦争の危険すらが、民族の運命と関連をもちつつ、身近に不気味にただよいはじめている。
われわれは、このような状態を黙ってみていることはできない。
とくに、このような情勢のなかで発行されている大部分の商業新聞は、わが山口県において、その規模が全国的にせよ、県的にせよ、市町村的にせよ、いずれも資本の支配下にあり、支配勢力の忠実な代弁をつとめている。興味本位の事件報道主義のかげにかくれて、ことの真実がゆがめられ、大衆の死活の問題がそらされる。切実な問題につきあたるたびにのまされる苦汁は、いつもしらじらしいウソやずるい黙殺や問題のすりかえであることは、だれでも経験しているところである。大衆はいおうにも口に鉄をかまされた馬のように、語るべき何らの機関ももたない。これでは、真実は泥沼の底におしこめられ、ウソがはびこり、歴史は偽造されてゆくばかりである。
われわれは真実を泥土にゆだねてはならない。いいたいことを明からさまにいい、欺瞞のベールをひきはがし、そのことをつうじて、真に大衆的世論を力強いものにしなければならない。そのために必要なことは、いかなる権威にも屈することのない真に大衆的言論機関をみずからがもつことである。このことは、今日切実に要求されている。
「長周新聞」は、このような要求にこたえて発行されることになった。したがって「長周新聞」は、つぎのような性格をもつ。
山口県民の新聞として、政党、政派や宗教的信条、職業などにかかわりなく、真実の報道と正しい世論の組織につとめ、平和と独立と民主主義を守る。また、労働者、農漁民、市民の生活を擁護し、郷土文化の擁護と発展のためにつとめる。
長周新聞は、1955(昭和30)年4月、山口県下関市で創刊されました。
創刊者の福田正義(主幹)は、1931年の満州事変勃発を契機にして官憲の言論弾圧が強まり、組織としては強大だった共産党が壊滅し、進歩的組織や左翼青年などが根こそぎ逮捕投獄されるという激動の時代に、下関や関門地域において文芸雑誌『展望』の発刊、『門司新報』での執筆活動など、人民大衆と苦難をともにしながら、弾圧と転向の流れに抗するギリギリのたたかいをつづけました。
日中戦争に突入し、思想・言論の自由がますます弾圧され、国内での活動の余地がなくなるというなかで、1939年に旧満州にわたり、満鉄社員会機関紙の編集部に入ります。その後、首になり、『大連日日新聞』に入って新聞編集にかかわりました。
「死んだ者の命をとり返すことができないのなら、死なないためのたたかいを、生死をかけてやらねばならぬ――」。敗戦後、大陸にとり残された数十万人の日本人の帰国運動に尽力した後、福田正義は帰国しました。その戦後出発にあたって、「戦前の共産党は非常に強大であったが、人民が苦難に置かれ手助けを求めているなかで瓦解してしまった。しかし、中国ではたちまちにして全中国を解放した。それは人民に奉仕する思想が徹底しており、大衆路線の道を行ったからだ」と確信を持ったことを語っていました。
1947年1月に帰国した後、日本共産党に入党し、当時GHQの労働運動弾圧が厳しいなかで、進駐軍の駐留地で働く労働者のストライキを全国ではじめて下関・長府で組織し、さらに防府、岩国の全駐労分会を組織して山口県支部を立ち上げるなど、日本人民の解放事業の活動を開始しました。
1949年、日本共産党中国地方委員会の常任委員として広島に赴任した福田正義は、アメリカ軍占領下の広島ではじめて原爆投下の犯罪に抗議する1950年8・6平和闘争を組織します。朝鮮戦争のもとで、幾度となく発行停止の弾圧を受けながら「平和戦線」「平和の斗士」「民族の星」を発行。原爆詩人・峠三吉も、この新聞に代表的な原爆詩を発表しました。その活動は、広範な広島市民のなかで乾いた砂に水が染みこむように受け入れられ、占領軍の弾圧にもかかわらず、原水爆に反対する運動が全国・世界に広がっていく端緒を開きました。
一方で当時、「アメリカを解放軍とみなすか、人民の敵とみなすか」をめぐる、いわゆる共産党の「50年問題」で臨時指導部から除名されますが、党内でそれとたたかいながら、原爆を投げつけられた広島市民の思いを代表して、原爆を投下したアメリカの犯罪を正面から暴いていきました。それはアメリカ占領軍を「解放軍」と評価し、「獄中十数年」を売りものにして、日本人民を「戦争に協力した加害者」と蔑視するような、唯我独尊の態度とは根本的に立場が異なるものです。
そして1955年、共産党が分裂し瓦解しているなかで、共産党から排除されている山口県の有志が集まり、このままでは人民は困るし、なにからはじめるかの討議を重ね、福田正義が発行責任者となって、まさに徒手空拳のなかから長周新聞の創刊となりました。「人民に奉仕する精神に徹して、 人民の苦難を調べ、 その手助けをしていくなら必ず勝利する」という確信のもとに、「独立、民主、平和、繁栄、民族文化の発展」の編集綱領を掲げての出発でした。
創刊当時の本社は、間口一間の掘立小屋で、電話1台に、交通手段は自転車1台。紙面はタブロイド判、10日刊からの出発でした。政治的経済的な困難や迫害、妨害は当然ありましたが、なにもないところから自己の路線の正しさと大衆の支持を確信し、「大衆の中から大衆の中へ」を基本原則にした新聞活動によって新しい局面をきりひらいていきました。
「平和を守り民族の独立を勝ちとる。民主主義を確立し、人民生活の安定と向上をはかる。また民族文化の発展のために努力することがなによりも重要であり、そのために政党・政派、宗教・思想信条、職業をこえて広範な勤労人民が団結することが必要である」との観点に立ち、いっさいの国際権威主義、政治主義、官僚主義などの俗物路線とたたかい、また「大衆的」といって卑俗な常識主義のとりこになっていく流れとたたかいながら、地方現実と向き合い、地方に生きる人々の生活と闘争を歴史的社会的に捉え、よりよい豊かな社会を実現するためにつとめてきました。
多くの県民からの支持によって読者網は広がり、週刊から3日刊、隔日刊へと大衆闘争の発展を象徴するように長周新聞も歩みを重ね、恒常的な新聞発行を保証する体制を作り上げてきました。
長周新聞は経営上の浮き袋となるような組織やスポンサーを持ちません。創刊以来、いかなる権威に対しても書けない記事は1行もない言論機関として存在するために、特定の組織やスポンサーに金銭的に依存したり、あるいはその支配に屈服する道を拒み、読者・支持者の皆様から頂く購読料とカンパによって成り立たせてきました。大衆的な利益を守りぬき、歴史の発展方向を見据えたジャーナリズムとして経営を維持するためには、人民に依拠し、その負託に応えて支持され、支えて頂くよりほかにはありません。長周新聞の60年以上にわたる歴史は、構成員の奮闘はもちろんですが、広範な人々の支えなしにはないものです。
長周新聞は、いかなる権威に対しても書けない記事は一行もない人民の言論機関として1955年に創刊され、65周年を迎えました。すっかり行き詰まった戦後社会の打開を求める幾千万大衆の願いを結びつけて力にしていくために、全国的な読者網、通信網を広げる努力を強めています。また真実の報道を貫くうえでは、経営の面で特定の企業や組織などのスポンサーに頼るわけにはいかず、1人1人の読者・支持者の皆さまの購読料とカンパに依拠して経営を成り立たせるほかはありません。ホームページの愛読者の皆さまに本紙の定期購読とカンパによるご協力を訴えるものです。
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