傲慢な米軍、放置し続ける隷属政府 「普天間の危険」除去する気なし
米軍普天間基地のそばにある緑ヶ丘保育園(沖縄県宜野湾市野嵩)の父母でつくる「チーム緑ヶ丘1207」の母親たちが12日、沖縄県庁で記者会見を開き、昨年12月7日に起きた米軍ヘリ部品落下事件の真相解明を求めてきた活動の状況を報告し、基地被害防止のために尽力した故・翁長知事への感謝の意を表明した。国が「普天間基地の1日も早い閉鎖・返還」を主張する一方で、その解決策が「辺野古移設」にすり替わり、それが宜野湾市民の願いに応えるものであるかのように喧伝されることへの危惧を示すとともに、宜野湾市民が置かれている実情や願い、これまでの要請への行政対応について現場の声を発信した。
はじめに同園の神谷武宏園長が、事件当時の状況とその後の活動の経過を以下のように説明した。
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昨年の12月7日に緑ヶ丘保育園に米軍ヘリからの部品が落下する事件がおきた。だが、あれから9カ月を経過しても、いまだ警察の“解析中”という状態が続いており、解決に向けて事態はまったく進展していない。
緑ヶ丘保育園は、普天間バプテスト教会附属保育園として1964年に開設された。当時は、戦後の荒れた状況下で、野嵩・普天間地区には保育園がなく、小さい子どもたちがあちこちで遊んでいるのを見かねた保育士の手によって開設された。子どもたちの遊び場であり、学びの場である保育園は、安全で安心して過ごせる場であることが大前提だ。保育園ではときに雨天でも園庭に出て、全身で雨を感じながら遊ぶこともある。
ところが昨年12月7日の午前10時20分頃、空から筒状のガラス瓶のような形状で、長さ約10㌢、直径8㌢、厚さ8㍉、重さ213㌘のものが「ドン!」という激しい音を立てて落ちてきた。屋根を覆う厚手の鉄製トタンが大きく凹み、いかに大きな圧力がかかったかがわかる。当時、園庭には二十数人の2、3歳児が先生と一緒に遊び、奥の部屋には4、5歳児たちが翌週に予定していたクリスマス会の劇や歌の練習をしていた。その楽しい時間を恐怖が襲った。隣の公民館に県が設置したカメラには、同時刻に保育園上空を飛ぶCH53Eヘリの機影が映っており、県が設置した集音器にも「ドン!」という落下音が残されていた。
落下物が直撃した屋根の下は1歳児クラスの部屋だった。その1歳児8人を連れて、これから園庭に出ようとしていたときの衝撃音に先生も子どもも声を上げて身構えた。「プロペラが落ちたのではないか」と感じた先生もいたが、それは真上でヘリの音がしたからだ。落ちた場所の50㌢先は園庭で、1歳児クラスの出入り口だった。もう少しずれていたら…と考えるとゾッとする。
屋根に上がると、モワッとする熱を帯びた油の臭いがした。私が生まれ育った宜野湾市新城もすぐ目の前が米軍基地なので、風向きによって同じ臭いがする。すぐに米軍の物だとわかった。警察が現場を捜査し、物体を持ち帰った後、インターネット上で、この物体が米軍大型輸送ヘリCH53Eのプロペラの根元に付いている「ストロンチウム90」のカバーであることがわかった。これは恐ろしいことが起きたと思った。カバーに放射性物質が付着していたり、あるいは放出している可能性すらある。急いで物理学の専門家に問い合わせるとともに、放射線測定器を持つ知人を通して園内の放射線量を計測し、基準値以内であることを確認できた。安全を確認できたので、翌日保育園を開園することができた。
だが米軍は、落下物が大型輸送ヘリの部品であることは認めながら、「飛行中のヘリから落下した可能性は低い」と関与を否定した。上空を飛ぶヘリの画像も落下音も記録されており、落下物には「U.S.」と記載されている。付近の住民も落下物が保育園の屋根で大きく跳ねるのを見ており、警察はそれを聴取している。それなのに認めようとしない。
その報道の後、保育園への誹謗中傷のメールや電話が入り出す。メールだけならまだしも、電話が朝から多いときは1日10~20件もかかってきた。その多くが「捏造事件」「自作自演」「反日活動家」などというおぞましいものだった。
これに対して父母たちが立ち上がり、緊急父母会を開いて嘆願書と署名活動を開始した。嘆願書は「事故の原因究明、および再発防止」「原因究明までの飛行禁止」「普天間基地に離発着する米軍ヘリの保育園上空の飛行禁止」という当然の要求だ。即、基地を撤去しろという話でもなく、子どもたちの安全のために行政に常識的な対応を求めた。アメリカでも軍用ヘリが保育園上空を低空飛行することなどない。
だが、米軍も国もこの要請に真摯に向き合うことなく、事態は改善されず、その6日後には、近くの普天間第二小学校に窓枠が落下する事故が起きた。緑ヶ丘保育園は、外務省が公表している米軍機の飛行ルートからは大きく離れている。せめて飛行ルートさえ守れば起きる事故ではないことがわかる。だが、彼らは自由自在に飛び回る。
母親たちの活動によって10日間で2万6000筆をこえる署名が集まり、その後も週4~5回の署名活動をおこない、年明けまでに10万筆をこえた。その間にも嘆願書をもって市長や市議会、県議会にも同じ要望を訴えて回った。最終的に集まった12万6907筆の署名を携えて、外務省、米国領事館にも出向いた。だが、国は「米軍の調査待ち」とくり返すばかりで具体的な解決策を示すことなく、私たちをたぶらかすような返答しかなかった。
12月29日の宜野湾市民大会では、父母会の代表が「私たちは安心で安全な空の下で子どもたちを遊ばせたいだけだ。子どもたちに“もう大丈夫。空からは雨しか降ってこないよ”といえるように飛行禁止を求めたい」と訴えた。
それからも米軍機の事故は、絶えることなく続いた。普天間第二小学校でのヘリ窓枠(7・7㌔)、うるま市でのオスプレイの吸気口(13㌔)落下、そして那覇市沖でのF15の墜落へとエスカレートしている。次は何が落ちてくるのか。これを警告と見ずになにを見るのか。私たちには絶望がすぐそばに迫っているようにしか思えない。
落下物事故が起きてから数日後、1959年6月30日に起きた宮森小学校ジェット機墜落事故(児童12人を含む18人が死亡)のご遺族が来園され、「大変でしたね」と声をかけてくれた。当時、米軍が宮森小学校の遺族に賠償金を2000㌦支払うといったとき、母親の一人は「あなたの息子をここへ連れてきなさい。私があなたの息子を殺して、賠償金2000㌦を払うさ」と怒りを込めていったという。それに対して米軍は銃を抜き、母親は「私を撃ちなさい! 撃ちなさい!」と銃口の前に立ちはだかったという。子を失う母親、子が危険な目に晒される母親の気持ちがどんなに辛いか。米軍の傲慢さがどれだけのものか。この米軍の傲慢さは、あのときも今も何も変わっていない。だから、今も認めようとしないのだ。私たちの命の尊厳は、日本国憲法の下に守られているはずだ。そのことを共有し、この問題が「なかったこと」にされないためにも協力してもらいたい。
子を預ける母親たちの思い
母親たちも強い決意を込めて意見をのべた。
母親の1人は「私は生まれも育ちも普天間だが、ヘリやオスプレイが危険という認識はなく、事故に至っては想像すらしていなかった。事故直後、ショックとまた何かが落ちてくるかもしれない恐怖と不安でとにかく混乱した。どうすれば子どもたちを守れるのかと思い、即行動を起こした。市、県、国に訴えた。賛同してくださる全国の人たちから12万筆をこえる署名が集まった。“これで子どもたちが助かる”という希望を持って、その署名を携えて上京した政府要請。しかし、国の答えは“米軍からの回答待ち”のみの冷たい対応だった。絶望、怒り、悲しみで一杯になったのを覚えている」とのべた。
「私たちの要求していることは、私たちの大切な子どもの命の問題だ。皆さんのお子さんの命の問題だと訴えたい。私たちと同じ体験を誰にもさせたくないというのが出発点だ。現状が変わらない以上、子どもたちの安全が保障されるまでこれからも行動を続ける。これは基地のまわりに住む人だけの問題だろうか。ヘリは今この時間も沖縄中を飛び回り、私たちの上に起きたことは、いつでも、どこでも、だれにも起こりうることだ。“いつか”ではなく、まして普天間と辺野古、選択肢が二つだけというのはおかしい。他人事ではないことにみんなが気づいてほしい。それを伝えたくて皆さんの協力をお願いしたい」と訴えた。
別の母親は「事故以来、手探りで活動を続けてきたが、理不尽のかずかずだった。どうして私たちを守ってくれないのかと思う。国は国民の声を聞くのが仕事なのに、まったく聞いてくれずとてもショックだった。前市長は、事故当日に保育園にこられたが、それ以来はなく、昨年の署名提出時にアポをとっても面談は叶わなかった。職員が来たのは八月だった。状況はまったく変わらず子どもたちの頭上を米軍機が飛び回っている。子どもが危険である以上、私たちは諦めるわけにはいかない。現状を変えるまで行動を続けていきたい」と決意をのべた。
また、母親たちが口を揃えていたのが、職員を現場に派遣して実情を聞きとり、みずから非公式に園を訪れて懇談したり、県庁で母親たちの面談に応じて「行政としてみなさんを支える」と励ましていた翁長知事の対応と比べ、宜野湾市(佐喜真前市長)の冷淡な対応だった。市長は事故当日以外は一度も来園せず、米軍飛行が改善されないため面談を求めても親たちの前に出てくることもなく、「現場の状況を見てほしい」と要請を続け、事故から8カ月たった今年8月半ばになってようやく現地に職員を派遣したという。
知事選にあたって佐喜真前市長や松川副市長が「普天間周辺の方方の苦痛にも似た悲鳴」「市民の苦しみを終わらせたるためにも普天間の危険除去を!」と強調していることについても「どんな気持ちでおっしゃっているのかな? と感じる」「何度も市役所に足を運んで、まず保育園の状況を知って欲しいと訴えているが、市長が忙しくても誰か職員の方を派遣することはできたはずだが、今も置き去りにされている」「(市長に)寄り添ってもらった、助けてもらったという感覚は正直ない」と率直な疑問を語った。
7月19日にも市長に面会を求め、会えるというアポをとって行っても松川副市長が対応し、8月15日に防衛局に面談に行くと、それを受けた翌日ようやく市基地渉外課の職員が訪れた。副市長に「このような事故は、次は大事故が起きるという警告だ。子どもたちの命がかかわっており、米軍がルートさえ守らなければ、宜野湾市として水道などのライフラインの提供をやめるくらいの気構えで私たちの前に立ってほしい」と訴えたが、副市長は「そんなことをすれば裁判になり、負ければ市民の税金を使うことになる」と答えたという。その後、辺野古新基地建設阻止を掲げる翁長県政に対抗する形で「普天間の危険性除去」を唱え、佐喜真市長は知事選に、松川副市長は市長選に、それぞれ出馬を表明した。
母親たちは「普天間と辺野古は別問題であり、二者択一の話ではない。私たちの上空を飛ばないでほしいと求めているが、それは名護の上空も同じだ」「沖縄に住みながら知らなかったことがたくさんあることを知った。沖縄上空の管制圏が日本のものではなく、日米地位協定上は米軍のものであることには衝撃を受けた。いくら日米で飛行ルートを決めたところで、その上にアメリカの権利があるのなら日本は話ができる立場にあるのか。沖縄は憲法の下にあるのか、それとも地位協定の中に浮いているだけなのか。親が子どもたちの安全を訴えても、だれがこれを整理してくれるのかと、現実を知るにつけてとても複雑な気持ちになる。辺野古の問題だけでなく、もっと深いところにある問題を変えなければ安全は確保されない」とのべた。
「私も宜野湾育ちだがヘリに恐怖を感じたことはあまりなかった。でも、2歳の子どもが夜にヘリの音が聞こえると“お母さん、ドンが来たよ”という。それを聞いたとき、胸が締め付けられた。子どもが大きくなったときに同じ経験をし、同じことに時間をとらせたくない。今直接私たちがしっかり声を伝えていかなければ、普天間の問題が違った方向に使われてしまうことを危惧している」とのべた。
母親たちでつくる「チーム緑ヶ丘1207」は、これからも全県、全国に実態を伝え、政府に対する要請行動やアメリカへの陳情も含めて米軍機事故を食い止める活動を幅広く展開していくとしている。