大妻女子大学博物館に勤務する著者は、自然人類学を専攻し、これまでシリア、ケニア、アメリカ、インドネシアなどで古人骨の発掘調査に携わってきた。その経験から戦没者の遺骨を鑑定する人類学専門員となり、2010年からこれまでに17回、太平洋各地の激戦地に派遣され、旧日本軍兵士および民間人約500体を鑑定している。
著者の両親は広島で被爆しており、著者は被爆2世である。また父親の長兄はビルマで戦死し、母親の叔父はニューギニアで戦死した。先の大戦の戦没者320万人のうち、海外での戦没者は240万人といわれるが、これまでに遺骨が収骨されたのは約127万人分で、いまだに約113万人分の兵士の骨が、最期の様子もわからないまま、太平洋の激戦地や玉砕の島島に眠ったままである。そして著者が遺骨収集に携わるのは、「現在生きているわれわれには、彼らのことを語り継いでいく義務がある」との強い思いからだ。
本書のなかでは遺骨収集の現場でのできごとが詳しく記されている。
「玉砕の島」といわれる北マリアナ諸島のサイパン島には、著者は4度派遣された。昨年8月の4度目の調査では、島の北部にある16カ所の洞窟から59の遺骨を収集した。内訳は37体の成人男性、8体の成人女性、14体の未成年だった。未成年といっても1歳、2歳、3歳、5歳…といった幼児が多い。太平洋の島島の鑑定では遺骨は日本兵のみであり、このように民間人が多数出土するのはサイパンとテニアンのみだという。
サイパンは、米軍に占領されると本土空襲が可能になるので、天皇制政府は昭和19(1944)年に「絶対国防圏」に指定し、陸海軍4万6969人を送り込んだ。しかし同年6月15日に米軍が上陸攻撃を開始すると抵抗力はなく、その後北部の断崖絶壁に追い詰められた日本兵と民間人多数は次次と海に飛び込み、推定で約1万人が死亡した。
さらに、日本軍司令部は残った者に全滅覚悟の「万歳突撃」を命令した。命令を受けたのは兵士だけでなく、在郷軍人、警防団員、青年団員など民間人の男性も多数含まれていた。「突撃」といっても多くの兵士には武器はなく、初めから武器を持たない民間人は棒の先にハサミやナイフをつけたり、ただ石を持っていただけの者もいた。7月7日の夜が明けるとタナバク海岸には4311人もの死体が死屍累々と積み重なっていたと記録に記されている。
しかも米軍は、ブルドーザーで長い溝を掘り、その中に死体を無造作に投げ込んでいった。遺骨の発掘調査を進めると、上層では全身骨格が出土するのに、下層では四肢骨の破片が多く保存状態が悪かった。それは米軍が死体処理に、除草剤にも使われている塩素酸ナトリウムを撒いたからではないかという。また、米軍の上陸攻撃があった激戦地であればあるほど、日本兵の歯から金歯や銀歯が抜きとられていることが多いという。
サイパン島の南5㌔にあるテニアン島には、米軍は同年7月24日に上陸攻撃を開始した。当時テニアン島には1万3000人の民間人が生活していた。ほとんどが南洋興発のサトウキビ畑や製糖工場で働いており、昭和恐慌のなかで食うに困った福島や沖縄の農民がほとんどだった。ここでも断崖絶壁からの飛び降りと「万歳突撃」で、日本兵約7800人、民間人約7700人が犠牲になった。
遺骨鑑定を始めると、やはり民間人の女性や子どもが多く出土していた。サイパンやテニアンの洞窟では、部分的に焼けた焼骨が出土することがある。それは米軍による火炎放射器の犠牲者である。
今年3月の調査では、遺骨の供養のために焼骨式をおこなった。点火すると「ピー」という音がし始めた。まるで亡くなった子どもが泣いているように聞こえ、一同涙したという。
著者が鑑定に行ったマーシャル諸島ミリ島、トラック諸島、メレヨン島(現・ミクロネシア連邦ヤップ州)は、飛び石攻撃をおこなった米軍が実際に上陸攻撃をしなかった島である。攻撃はなかったが、制海権と制空権を奪われたもとで食料や物資の補給が断たれ、兵士たちは飢餓や病気に苦しみ、多くが飢えて死んでいる。
メレヨン島では戦没者は4913人だが、死因のほとんどは餓死だった。これほどの死者を埋める場所がないため、うち約1200人は水葬にしていた。元海軍軍医の記録によると、メレヨン島での1944年の一人当たりの主食の摂取量(一日当たり)は、5月が580㌘、8月が290㌘、10月が100㌘だった。島のトカゲやネズミはすぐに姿を消し、兵士たちは栄養失調で身体が弱って餓死したり、アメーバ赤痢やデング熱にかかって衰弱して死亡した。
著者はまた、トラック諸島で起こった不可思議な事実についても触れている。米軍は1944年2月にトラック諸島に対する総攻撃をおこない、日本軍の巡洋艦、駆逐艦、輸送船など40隻以上を沈没させ、10隻以上を大破、航空機は270機を撃墜あるいは地上で撃破した。ところが、米軍がトラック諸島を攻撃している真っ最中に、日本の艦船がまるで攻撃してくれといわんばかりに次次とトラック諸島の湾内に入ってきて、これが被害をさらに拡大する結果になった。
こうして遺骨収集のなかで浮き彫りになるのは、「日本軍国主義の戦争を終わらせる平和で民主主義の軍隊」といわれた米軍の残虐性であり、負けるとわかっていた戦争を自己の地位を守るために引き延ばし、犠牲者を増やし続けた日本の天皇制軍国主義の犯罪性である。犠牲になったのは日本の将来を担うはずだった若者たちであり、年寄りや女性や子どもたちだった。
著者は遺骨鑑定をおこなってきた先輩たちの遺した言葉、「過去の戦争の犠牲者に対して人道を尽くすこともまた、平和を願うわれわれに課せられた義務ではないか」「われわれは国籍、人種の如何を問わず、戦争の災禍に余りにも多くの青年がいまだ死ぬべき時に非ずして、しかも死んでいった事実を心から悼む」を胸に刻んで、すべての国の戦没者が収骨される日がくることを願いつつ、今も現場に足を運んでいる。
(筑摩書房発行、B6判・234ページ、定価1500円+税)