いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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貧乏になって戦争になった 第二次大戦前とそっくりな現代

 第2次大戦を経験した戦争体験者は、「あの頃もみんなが貧乏になって戦争になっていった。今がそっくりだ」と、共通して指摘している。当時の世相が、安倍政府が集団的自衛権の行使や秘密保護法の制定など、新たな戦時国家体制づくりに暴走する背景にあるものとかぶさって、まざまざと思い起こされるのである。下関の戦争体験者に当時の生活の苦難とともに、今日の戦争のきな臭さへの危惧(ぐ)と怒りを聞いてみた。
 
 重税や食糧難、若者戦場送り

 下関市豊北町に住んでいた80代の婦人は、「あの頃はみんな貧乏で物がないのが当たり前の時代だった」という。満州事変から続く戦争で物資は不足し、食料などの物資は次次に配給制になっていった。「私の家は饅頭をつくって売っていたが、砂糖が配給になってだんだん量も少なくなっていった。最終的には黒砂糖になり、それも手に入らなくなって野菜のパンをつくって売るようになった。大豆も配給になったので味噌や醤油屋もつぶれたし、布も配給になって呉服屋がつぶれた。結婚式のときの衣装をつくろうにも、布も呉服屋もなくて探し回った。私よりも後に結婚した人たちはみんなもんぺでないと結婚式が挙げられなかった」といった。また、白菜を漬けるにも塩も配給になっており、海水を汲んできて漬けていたことを話した。


 田舎では農家はあまり奉公に行くことなどはなかったが、矢玉や和久などの漁村では子どもたちは小学校を卒業すると、みな口減らしの意味もかねて丁稚奉公に出された。婦人の義理の弟は、大陸の土地を求めて高等小学校一年生(現在の中学校一年生)のときに満蒙義勇軍として満州に渡った。「満州に行けば土地がたくさんある」といわれて志願したが、戦後日本に引き揚げてきたときにはげっそりとやせ細り病気になっていた。「だまされたとしきりにいっていた。村から義弟ともう一人義勇軍として参加したが、帰ってきたのは義弟だけだった。他にも友人が次次に倒れ自分だけが生き残って申し訳ないと何度も何度もいっていた。13歳でまだほんの子どもなのに、どれだけの苦労をしたのだろうか」と話した。


 4人いた兄もみな戦争に引っ張られた。一番上の兄は16歳のときに海軍の試験を受けて合格し、そのまま軍人になり、家には母と婦人一人が残されて必死で生活をしていた。厳しいなかでも母は兄たちに、食べ物や書けない手紙を一生懸命書いて送っていたが、戦争が激しくなり生活は苦しくなる一方だった。


 「当時は戦死すればいくらか国からお金が入ったがうちの兄はみんなケガをして帰ってきた。ケガ人だから働くこともできない。それまでは兄たちのために一生懸命に物を送っていた母が、“四人も兵隊に行ってだれか一人でも戦死すれば家にお金が入ったのに”といっていた」と、当時のどん底の貧しさの実態を語った。


 婦人はさらに、「今もまた戦争になりそうな空気を感じる。これだけみんなが貧乏で仕事がなくなり殺伐とした空気になっている。そのなかで戦争をすることでもうける人がいる。前の戦争もそうだった。その結果犠牲になるのは庶民だ。絶対に戦争だけはくり返してはいけない」と深い思いを語った。
 
 昭和4年世界恐慌 ウォール街で株価暴落 全国で工場閉鎖

 体験者は口をそろえて「自分の家だけが貧しかったのではない。みんな貧乏だった」と語る。それは第1次大戦後のバブルがはじけて昭和2(1927)年の経済恐慌のもとで激しくなった。こうしたなかで昭和4(1929)年10月、ウォール街の株価暴落に端を発する世界恐慌が起こった。


 とくにアメリカに輸出していた生糸やコメが暴落した。昭和5年秋は豊作だったため、米価は以前の半額以下になり、農家は豊作飢饉に陥った。翌年には北海道・東北地方は冷害と大凶作に見舞われ、農村では親子心中、娘の身売り、学童の欠食といった深刻な事態になった。


 こうした食料難は日米開戦から敗戦後まで続いた。終戦時に小学校3年生であった70代の男性は、「子どもたちはみんな弁当は毎日麦飯の日の丸弁当だった。その弁当すら持ってこられずに、家に帰る子どもがクラスに10人以上いた。そのなかで寺の息子は卵焼きが入っていた」という。


 下関の不景気はひどかった。市内各商店の大売り出しも客は閑散として、とくに呉服屋などは例年と比べて5割方ももうけが減ったことで、店閉まいがあいつぐ状況であった。


 昭和2(1927)年には、全国の中小銀行が閉店・倒産し、預金者は一夜にして無一文になるという金融恐慌が始まった。全国で工場閉鎖、首切りなどがあいついだ。同年の失業者は100万人を超えた。最高学府を出ても就職はなく、「大学は出たけれど」が流行語になるほどであった。


 山口県下の統計上の失業者数は、昭和4(1929)年9月には約3000人であったが、翌年7月には3万800人となった。
 そのうえに重税が市民生活を苦しめた。下関の戸数割り特別税は、昭和4年上半期の増税額は20万6870円であった。この滞納者は納税者の2割にあたる約2000人に及んだが、一斉に差し押さえられた。


 こうして昭和6(1931)年、満州事変に突入した。一家の大黒柱、働き手を兵隊にとられ、女子どもだけが残されて、無収入の生活となり、生活がますます貧困になっていったことも語られている。


 前述の80代の婦人は、「満州事変からずっと日本は戦争続きで男手は常に不足していた。女手も勤めていない者は軍事工場に徴用されはじめ、家業を手伝っていた女性は急いで実家に近い鉄工所で働き始めた。もともと船の修理などをする鉄工所だったが、戦争が始まって小倉工廠の鉄砲の弾もつくっていた」という。


 80代の元漁師の男性は、「漁村だからまわりはみんな貧乏だった。幼稚園にも行けず、勉強ができて中学校に行きたくてもお金のある家庭の子どもしか行けなかった」と話した。高等小学校卒業後に兵隊を要請するための青年学校へ通い、海軍に志願し中国戦線に送られた。


 終戦時に小学校3年生だった70代の男性は「中国や朝鮮から持ってきていた食料が、戦争で負け始めてだんだんと入らなくなり配給制になっていった。衣料もすべて配給で“欲しがりません勝つまでは”といわれ、“兵隊さんが頑張っているのだから”とみんな我慢をして生活していた」と話す。そのなかで空襲によって焼け出され、家も財産もすべてを失い、母親と幼い子ども3人が焼け出された。


 アメリカとの戦争が迫ったころ、下関の三菱造船所の「工員生活実態調査」によると「夫婦、子ども3人(うち小学生2人)の5人家族の場合、残業その他諸手当を含めて、日給2円97銭、副食費は野菜、魚であればイワシ程度、衣服費、学用品、諸雑費、煙草は1日バット1箱、酒は一切飲まずにやったとしても1日分の収入合計との差額はとても見合うものではなかった。買わされた国債をその夜のうちに売りにいく者、また借金に苦しんで退職手当を目当てに退職する者も出ていた。


 70代の男性は、「当時は戦時国債をみな買わされていたが戦後はそれもすべてパーになり、預金も封鎖された。家が焼けたので津和野に疎開していたが、焼け出されてきれいな着物もないので田舎に行ってもイモにしかかえてもらえなかった。毎日毎日3食サツマイモで妹は食べなくなり、栄養失調で腕が動かなくなったりもした」と語る。


 80代の元漁師の男性は、「軍隊では給料のような形で軍票が配られていた。それが、敗戦後に一気に価値がなくなり、紙切れ同然のものになった。リヤカーいっぱいに軍票を積んでいって、空豆が5つしか買えなかった。それまでは日本軍という後ろ盾があったから価値があったが、それが戦争に負けてなくなると価値がなくなった。今の日本も大借金をしているが、いつ国家破たんして国民が一生懸命に貯めた資産を一気に失ってもおかしくない状態だ。現に、今は物価が上昇しているから貨幣価値がどんどん下がっている」と危惧する。


 漁村に住む別の80代の婦人も、終戦後のインフレで貯金が紙切れのようになった経験を鮮明に覚えている。男手が戦地から帰ってきた頃に豊漁の年があり、「4、5万円もうかった」と、叔父や叔母も布団の下に札を敷いて喜んでいたが、瞬く間に10円で買えていた物が20円になり30円になり、預金が凍結されて一家につき300円しか引き出せなくなった。預金凍結が解除されたころには、4、5万円はただ同然となった。
 
 深刻な歴史の教訓 戦争反対の全国的斗争迫られる 繰り返さぬために

 戦争体験者は、戦争で貧しい庶民がどん底に突き落とされたが、一方で、「お金のあるところにはあった」というように、財閥や地主がボロもうけしたことを強調している。


 明治維新以後、絶対主義天皇制の下で、「富国強兵」のかけ声で急速に発展した資本主義は、労働者と農民への徹底した搾取・収奪によって、国内の購買力を失わせ、不断に恐慌を引き寄せた。そして、新興の帝国主義国として、中国、朝鮮などに侵略して欧米帝国主義と植民地市場を奪いあう戦争へと突き進んだ。


 それは、不断に労働争議や小作争議を激化させたが、天皇制政府は特高警察や機密法などで戦時国家体制を強化し、国民の反抗を弾圧するとともに、他民族を蹂躙して台湾、朝鮮、満州などの植民地支配を進めた。そのような国策に従うことが、貧乏から抜け出す道であるかのように、学校教育や新聞、ラジオなどを動員してかり出していった。


 これが、日清、日露から中国全面侵略戦争の敗北へと進み、さらにその窮地をとりつくろうために、みずからの支配的地位を延命させることをこいねがって、アメリカに民族的利益を売り渡し320万人もの国民を殺すという残忍きわまる結果をもたらした。


 人人は原爆や空襲、戦地からの引き揚げを体験した。貧困生活を強いられた者はさらに肉親を奪われ、家財を焼かれ、戦後も食料難や預金封鎖・ハイパーインフレ・新円切り替えなどによって裸同然の無一物にされたが、天皇・財閥をはじめ支配層はそれによって、莫大な富を集中させたことを実際に目撃してきた。


 80代の男性は、「今の経済とは1つのリンゴをみんなでかじりあっているようなものだ。1人が2口かじれば1人はかじられなくなる。3口食べれば2人が食べられない。どんどん貧富の格差が広がって金持ち同士で争っている。“沈みゆく豪華船のなかで財宝のとりあいをしている”といわれるが、まさにその通りの様相だ」と話していた。


 あの痛ましい体験から六九年たった現在、リーマンショックは、失業と貧困、格差のはなはだしい拡大をもたらし、グローバリズム市場原理のバブル破綻をまざまざと示した。そして、破綻した結果、いっそう市場争奪戦は激しいものとなり、各国がしのぎを削ってブロック経済化や通貨切り下げなどを実施することとなった。


 日本国内を見ても、外資や、国内産業をつぶして海外に乗り出しす大企業の利益のために、貧困にあえぐ大多数の国民をさらに生活できなくさせる政策が露骨に進められている。搾取しすぎて市場が狭隘化し、海外侵略に訴える。「貧乏になって戦争になっていった」が性懲りもなくやられている。


 集団的自衛権の行使は、アメリカの国益を守るために日本の青年を肉弾にして恥じないものだが、それはまた、海外権益を現地の反抗から守ろうとする財界の要求でもある。それが、豊かで繁栄した生活を切実に願う大多数の国民生活に壊滅的な打撃を強いるものであることは、深刻な歴史の教訓である。戦争政策に反対する全国的な憤激を、平和で独立した日本社会へと根本から立て直す巨大な力に束ねて発展させることこそが求められている。

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