いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

8・6に向け取組が本格化 広島原爆と戦争展の主催者会議開かれる

6月30日に広島市内で開かれた主催者会議

 8月上旬に広島市内で開催される第17回広島「原爆と戦争展」の主催者会議が6月30日、広島市中央公民館でおこなわれた。原爆展を成功させる広島の会の被爆者や被爆2世、現役世代などの市民が参加し、73年目の原爆記念日(8月6日)を頂点にしておこなわれる同展の成功に向けて力を合わせることを確認した。

 

 はじめに挨拶した広島の会の眞木淳治会長代行は、この間、被爆2世や大学生など次世代による活動が活発化していることに触れ、「被爆者が高齢化や病床に倒れるなかで、若い人たちの力を借りることが必要になってくる。この原爆展運動は今年で17年目になるが、国政は私たち国民の願いからかけ離れた方向へ進んでおり、黙って見過ごすことはできない。1人でも多くの人たちに原爆の実態を知らせるとともに、平和や生命の大切さをしっかり伝えていく場にしていきたい。私たちは年をとってもその意欲は一向に衰えていないし、皆さんとともに頑張っていきたい」と気迫を込めてのべた。

 

 つづいて事務局がとりくみの経過を報告。市内の宣伝行動がはじまり、約450人の賛同者に協力依頼を届けたところ、新規に申し出る大学生をはじめ100名の賛同協力が集まっており、これまでになく強い問題意識をもって広島に訪れる全国、世界の人人の願いに応えうる大交流の場にすることを提起した。

 

 男性被爆者は、5月から6月にかけて全国各地から来広した修学旅行生への被爆体験証言、市内8つの小学校、中学校での平和授業での証言活動をふり返り、「10年継続してきた学校では、代代の校長先生も被爆者を学校に招くとりくみを継続し、今年は小学生から感動的な手紙が送られてきた」と紹介した。

 

 手紙のなかで小学5年生の男子は、90歳を越える高祖母、曾祖母がともに被爆者であることを記し、「僕たちが次世代の人たちに原爆のことを伝えて行くためには、今からどんな事ができるのでしょうか。大人になってからでないとできないということでもかまいません。ぜひお返事を聞かせてください」と書き、同じ5年生の女子児童は「私のひいおばあちゃんの兄が、原子爆弾が投下された当時、広島で教師をやっていて亡くなったと聞いています。なので私はひと事ではすまされないと思っています。平和な世界を作り上げていくのは私たちなんだという自覚をもって世界に平和を訴えていこうと思います」と記している。

 

 「このようなやる気満満の子どもの意識の高さ、意欲の強さに感動している。中学校でもこれまでになかった新しい動きがある。学校とも連携してこのような次世代を育てていくことに私たちも積極的にかかわっていきたい」とのべた。

 

 91歳の女性被爆者も精力的な証言活動をふり返り、「私たちの子ども時代をいまの子どもたちにわかりやすく伝えるのは難しいが、子どもたちは感受性豊かに受け止めている。残る人生を子どもたちに伝えるために頑張りたい」とのべた。

 

 85歳の男性被爆者は、はじめて体験を語った小学校から感想文が送られてきたことに喜びをのべ、「原爆でどれほどの人が混乱に陥り、家族を奪われ、バタバタと死んでいったか。戦争は子どものケンカの延長ではなく、国を滅ぼすものだということも伝えてきた。私は爆心地から1・2㌔の鶴見町で被爆したが、道ばたにたくさんの死体が転がっていても12歳では何もできなかった。日赤病院の裏で魚問屋をしていたが、崩れた屋根の下に魚と一緒に人間がたくさん死に、川には死んだ人間が流れていた。私の親はその光景を“しっかりと見ておけ。それを後世に伝えるんだ”といい残して死んだ。いまも街角や岸壁、橋脚を見るたびに、あの日に多くの人がそこで死んでいたことが鮮明に蘇ってくる」とのべた。

 

 さらに15年前、米国在住の叔父から「広島の様子を伝えてくれ」といわれ、ロサンゼルスにいる約300人の日系人の前で被爆体験を語ったことを明かし、「日系2世たちは“新型爆弾としか伝えられていなかった”と驚いていた。戦後何十年たっても米国では真実は伝えられていなかった。多くの友や知人が原爆によって殺されたが、生きている限りその無念を日本の若い世代に伝えていきたい」と切実な思いをのべた。

 

 別の年配婦人も「広島大学での原爆展で学生に体験を語りにいった。前日からのサッカーワールドカップの大騒ぎの中でどれだけの学生が戦争の話を聞いてくれるのかという不安もあったが、それは大きな思い違いだった。学生たちは熱心に耳を傾けてくれた。被爆から73年がたち、若い人たちももう一度戦争や原爆の悲惨さを考えようという時期が来ているのではないか」とのべた。

 

 60代の女性は「夫が生後10日で被爆していたことは知っていたが、まさか原爆症を発症するとは思いも寄らなかった。55歳で癌になった夫は、病院で原爆症であることが告げられ、検査に行くたびに新しい癌が見つかった。それでも8年半闘病して亡くなった。亡くなるとき、庭にムラサキツユクサがたくさん植えられていた。なぜかな? と思いながら、冬になって刈りとると、小さな札に“この草花を検査すれば被曝量がわかる”と記してあり、夫は亡くなるまで放射能の恐怖におののいていたことを知った。亡くなる前にポツンと“戦争さえなければ…”といっていた。55歳で仕事を退職しなければならなかった無念さなど、夫の思いを少しでもみなさんに伝えられたらと思っている」と抱負をのべた。

 

 20代の英語教師の女性は、「10代、20代などの若い世代も平和公園での街頭展示や被爆体験の継承活動に力を入れている。体験がないため、知らないことは勉強して次の世代に伝えたい。私は英語を生かして新規パネルの英訳や市民提供資料の説明等も海外の人にもわかるように解説していきたい」と意気込みを語った。

 

 40代の男性は、「今年は長崎の原爆と戦争展にも出向いたが、長崎の被爆者や学生さんともまるで以前からの知り合いのような親しみ深い交流になった。平和公園の街頭展示も世界中からくる人が多い。とくに外国人は“原爆は戦争終結には必要なかった”というパネルに集まり、丹念に読んでいる。より多くの人たちに参加して貰えるように働きかけたい」とのべた。沖縄や長崎で交流をしてきた被爆者も「それぞれに深い思いを抱いて運動をしている全国の人人の意識をつないでいけるように頑張りたい」と抱負をのべた。

 

 今年の広島「原爆と戦争展」は、7月29日(日)~8月7日(火)まで、広島市中区袋町の「合人社ウェンディひと・まちプラザ」(北棟4Fギャラリー)で開催される。「原爆と大戦の真実」「原爆と峠三吉の詩」等のパネルの他、広島・長崎市民が提供した被爆資料や絵、遺品など豊富な展示物を一堂に会して被爆地の経験を伝えるとともに、会場では被爆者や被爆2世などが体験を語り伝え、学生スタッフが翻訳や運営業務を担うなど多世代が連携したとりくみとなる。

 

 約1カ月後の開幕に向けて、地域や職場、学校など全市的な宣伝を広げていくことを確認した。

関連する記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。