「米朝会談の中止」がとり沙汰された理由として、ボルトン米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)らが、北朝鮮を「リビア方式」で非核化すると主張したことがあがっている。ボルトンは「リビア方式」を実行した当時の担当者である。アメリカは北朝鮮の反発を受けて、リビア方式とは「短期間で非核化の実現を目指すことを意味するもの」だとして、カダフィ殺害を念頭に置いた北朝鮮の解釈が間違っていると主張している。しかしこの一件でリビアでアメリカが何をしたのかが改めて浮き彫りになっている。
リビアは世界第8位の石油産出国である。米欧の資本は早くからその利権を奪うことを狙い、反米欧の姿勢をとるカダフィ政府を「テロ支援国家」に指定し、経済制裁や空爆をおこなうなどして屈服を迫っていた。
2003年にアメリカが「大量破壊兵器」を口実にイラク戦争を開始し、フセイン大統領が米軍に拘束され処刑されたのをへて、カダフィは同年12月、核兵器など大量破壊兵器開発の事実を認め、「即時かつ無条件の廃棄」を表明し、国際原子力機関(IAEA)の査察を受け入れた。
核兵器廃棄はIAEAではなく米中央情報局(CIA)と英秘密情報部MI6が中心になっておこなった。米英は核・ミサイル装備や関連機器、核運搬用ミサイル・スカッドC(射程700㌔)をはじめ、核開発計画に関する文書などすべてを押収。化学兵器はリビア国内で米英監視の下で破壊され、持ち出した関連機材は船舶でアメリカのテネシー州にあるオークリッジ国立研究所に運搬し、解体するという徹底したものであった。
リビアの核開発は現在の北朝鮮とは比較にならないほど初歩的なものであったが、カダフィ政府が申告した以外の施設についてもすべて査察を要求し、カダフィはそれを受け入れた。
「完全かつ検証可能で不可逆的な核解体」をへてアメリカは約半年後に国交を回復し、2006年にはテロ支援国家指定を解除し、当面は約束を守ったかのようだった。
しかし、それからわずか8年後の2011年、チュニジアやエジプトで民衆蜂起が起き、親米独裁政府が打倒される動きが出るや、米欧はそれに便乗し、あたかも独裁反対の民衆デモが起こったかのように見せかけて、米中央情報局とつながった「リビア救国戦線」に反政府派を標榜させ、東部のベンガジで政府軍に内戦を仕掛けた。
融和姿勢をとるようになって以後も、カダフィが石油国有化を放棄せず、米欧の石油メジャーの利権確保の邪魔になっていたこと、アフリカでの市場・勢力拡大に障害となっていたカダフィを除去することが目的だった。
米英仏伊をはじめとするNATO軍は「(カダフィ軍の)殺害から国民を守る」と称して国連安保理決議をとり、同年3月19日には武力侵攻を開始。わずか半年でのべ2万6000機を出撃させ、約8000回もの空爆をおこない、同年10月、カダフィを殺害した。カダフィ政府や軍の動向を無人偵察機や特殊部隊隊員につかませ、その指示に従ってピンポイント爆撃をさせるという徹底ぶりで、「カダフィを殺害する」という明確な意図を持って攻撃はおこなわれた。
カダフィとされる人物が、血まみれとなった映像や、上半身を裸にされ、車で引き回される映像も公開されるなどし、戦争犯罪に問う声もあることから、今もその死亡経緯は明確になっていない。しかし、アメリカ大統領選の過程で流出したヒラリーの私用メールからも、カダフィ殺害にアメリカが深く関与していたことが判明している。
「体制を保障する」「制裁解除」などの甘言で核兵器を放棄させ、丸腰になったところで政権を転覆するというのが「リビア方式」だが、その実態が広く暴露され、通用しなくなっている。