中東・パレスチナ自治区のガザ地区では、イスラエル建国でパレスチナ人70万人以上が故郷を追われたナクバ(大破局。1948年5月15日)70周年を目前にした14日、アメリカ大使館のエルサレム移転に抗議して4万人がデモ行進をおこなった。素手で抗議するパレスチナ人たちに対して、国境沿いで待ち構えていたイスラエル軍が実弾による狙撃をくり返し、8人の子どもを含む60人以上を虐殺した。8カ月の赤ん坊はイスラエルの催涙ガスで殺された。また、2700人以上にのぼる負傷者も、下半身を切断する以外手の施しようがないような重篤患者が多く、しかもイスラエルの経済封鎖で医療施設が不足している。この虐殺に対して全世界で抗議行動が巻き起こっている。パレスチナ自治区では16日、ゼネストがたたかわれた。
発端は昨年12月6日、米大統領トランプがエルサレムをイスラエルの首都と認定し、テルアビブにある米大使館をエルサレムに移転する手続きの開始を指示したことだ。国連総会は緊急特別会合を開き、アメリカにエルサレム首都認定の撤回を求め、すべての国にエルサレムに大使館を置かないよう要請する決議案を、193カ国中128カ国の賛成多数で採択した。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の3つの宗教の聖地があるエルサレムについて、イスラエルは2度の戦争で武力占領して勝手に「首都」と宣言したが、国連はそれを認めず撤退を要求し、「エルサレムの地位はイスラエルとパレスチナの和平交渉で決める」としてきた経緯がある。
しかしトランプはこれを無視し、パレスチナ人を挑発するかのように悲劇の日にあわせて米大使館を移転した。この日イスラエル軍は、平和的デモ行進に参加した老若男女の命を弄ぶかのように無差別の狙撃をやり続けた。
ナクバの日に向けてパレスチナ難民の帰還を求めるデモ行進は3月30日から続いているが、国連の人権団体はこの間、イスラエル軍の銃撃によって14人の子どもを含む112人のパレスチナ人が殺され、数千人が負傷したと発表している。しかし責任を問われた米国政府は、「原因が大使館移転にあるというのは全くの誤り」(国連大使ヘイリー)であり、イスラエルの行動は自衛行為であると開き直った。これに対して中東アラブ諸国をはじめ世界中で、激しい怒りをぶつける抗議行動が巻き起こっている。
パレスチナ自治政府のアッバス議長は、米大使館の移転は「東エルサレムに米国入植者の前哨基地をつくるもの」と強く非難し、ゼネストを呼びかけた。16日、公務員や民間企業の労働者、学生などの多くがストライキのために家に留まったため、工場はストップし店舗は閉鎖された。ヨルダン川西岸地区のラマラでは15日、数千人のパレスチナ人がパレスチナ国旗を掲げながら行進し、国際的に保証された自由、独立、すべての難民の帰還権を訴え、「エルサレムを首都とするパレスチナ国家を樹立するまで解放と独立のためのたたかいを続ける」との決意を示した。
トルコの都市イスタンブールでは14日、約6000人がアメリカ大使館の移転とイスラエルの大量虐殺に抗議する集会とデモ行進をおこない、「イスラエルはテロ国家」「パレスチナはパレスチナ人のものだ」と叫んだ。イエメンの首都サヌアでは15日、数千人が集会を開き、「パレスチナ人と一体となってたたかう」と決意を表明した。ヨルダンの首都アンマンでも米大使館前で抗議行動がおこなわれた。非武装のパレスチナ人殺害への抗議はイスラエルの国内でもとりくまれた。
南アフリカのケープタウンでも15日、数千人が抗議行動をおこなった。同国の国会議員やアフリカ民族会議(ANC)、ユダヤ教徒やキリスト教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒を代表する人人も参加し、「ガザで起こったことは宗教の問題ではなく、人間的な原因があり、流血に直ちに終止符を打つべきだ!」と訴えた。同国のヨハネスブルグの集会では、「南アフリカのパレスチナへの支援の歴史は、アパルトヘイトの人種差別とのたたかいのなかでも何十年と続いてきた」との、共通の敵とたたかう発言が注目された。
インドネシアでは11日、数万人のイスラム教徒が米大使館の移転に抗議するためにジャカルタ市内に集まった。集会では発言者が「インドネシアのイスラム教徒の若者たちは、イスラエル、アメリカ、そして同盟国の暴力とたたかう準備ができている」と語った。
アイルランドでは15日、首都ダブリンをはじめ7つの都市で抗議集会がとりくまれた。「アイルランドとパレスチナ連帯行動」(IPSC)の議長ファティン・アル・タミミ氏は「非武装の抗議者たちがイスラエルの狙撃兵の弾丸を受けている。過去2カ月間に非武装のパレスチナ人100人以上が虐殺されたのに、イスラエルを罰する者は誰もいない。それどころか米国は大使館をエルサレムに移して祝杯を挙げ、殺害を非難する安保理決議を阻止している。EUは引き続きイスラエルに国民の税金を経済協力といって与えている。全体の状況はまったく恥ずべきで、病気だ」と強く抗議した。
ギリシャのアテネでは、国境沿いの流血と米国大使館のエルサレム移転に抗議するためのデモ行進がとりくまれた。イスラエルの旗を燃やし、イスラエル大使館に投石した。ベルギーのブリュッセルでも、ベルギーの平和団体とパレスチナの組織が共同でデモ行進をおこなった。
イギリスでは数千人がロンドンやマンチェスター、バーミンガム、グラスゴーなど10以上の都市で、パレスチナ人との連帯を掲げて猛烈な抗議行動をおこなった。そのほかフランスのパリ、アメリカの首都ワシントンやシカゴなどでも集会やデモがおこなわれている。ワシントンでは14日、アメリカの若いユダヤ人たちがデモ行進し、「パレスチナ人、イスラエル人、アメリカのユダヤ人の危機の瞬間なので、未来のラビ(宗教指導者)として行動した。米大使館をエルサレムに移転することは、イスラエルの東エルサレムでのパレスチナ人の迫害や、ガザとヨルダン川西岸での暴力に対して、米国政府がお墨付きを与えることだ」と訴えた。
こうしたなかでクウェートの国連大使が「イスラエルの行動は明らかに国際法と安保理決議違反だ」として国連の緊急会合を要請。その場でパレスチナ自治政府のマンスール国連大使は、イスラエルの虐殺を「戦争犯罪で人道に反する罪」と強く非難するとともに、「国連が腰を上げるまで、あと何人のパレスチナ人が死ななければならないのか」と強く抗議した。
トルコ政府はイスラエル大使を国外退去させるとともに、アメリカとイスラエルの大使を召還し、南アフリカもイスラエルの大使を召還した。親米のサウジアラビアやエジプトもイスラエルのパレスチナ人殺害を非難し、チュニジアの労働組合は米国船の入港禁止を検討している。戦争狂のイスラエルとアメリカの孤立は覆い隠すことができない。
イスラエルの横暴な虐殺に何故厳罰が下されぬ
パレスチナの地では70年前まで、140万人のパレスチナ人が1300の町や村にわかれて平和的に暮らしていた。それが1948年のイスラエル建国と同時に突如として土地を強奪され、故郷を追い出され、いまだに530万人が難民としてガザ地区(135万人)やヨルダン川西岸地区(81万人)、また隣国のヨルダン(218万人)、レバノン(46万人)、シリア(54万人)などで困難な生活を送っている。
このパレスチナ問題のそもそもの発端は、第1次大戦の戦勝国イギリスの「三枚舌外交」にある。イギリスをはじめ列強は、戦争中から中東アラブ地域を支配していたオスマン帝国を滅ぼして領土を分割しようと狙っていた。イギリスは、聖地メッカの総督フサイン・イブン・アリーと「オスマン帝国に対して反乱を起こせば、アラブ国家の独立とアラブ人のパレスチナ居住を認める」という密約を結んだ(フサイン・マクマホン協定)。同時にその裏で、オスマン帝国の領土を戦後はイギリスとフランス、ロシアで山分けするという密約を結んだ(サイクス・ピコ協定)。さらにその裏で、欧米やロシアで影響力を拡大するユダヤ人をとり込むため、パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設すると約束した(バルフォア宣言)。こうして国境線を直線に引き、民族や言語、文化を無視した人工国家をつくってきたことが、今日まで続く火種の根源である。
第1次大戦が終わると、イギリスがパレスチナを委任統治領にした。当時、パレスチナのユダヤ人人口はアラブ人人口の1割未満にすぎなかったが、パレスチナの将来はバルフォア宣言にのっとって進めるとした。
第2次大戦が終結すると、今度は戦争を通じて圧倒的な力を持ったアメリカが、冷戦という状況下で中東の膨大な石油を支配しようと動き始めた。イランでは石油を国有化したモサデク政府をCIAによるクーデターで転覆し、サウジアラビアとは軍事同盟を結んでカネと武器を与えた。そして1947年に国連でパレスチナ分割決議(パレスチナの土地の56・5%をユダヤ国家、43・5%をアラブ国家とする)を上げ、エルサレムは国際管理にすると決めた。だが翌年イスラエルが建国を宣言すると周辺のアラブ5カ国との戦争になり(第1次中東戦争)、勝利したイスラエルは西エルサレムを占領。1967年の第3次中東戦争では東エルサレムを含むヨルダン川西岸やガザなども占領した。
アメリカはイスラエルを中東支配の前線基地にするために、毎年毎年膨大な軍事援助をおこなって最新兵器で武装させるとともに、イスラエルの度重なる国際法違反には目をつむり続けた。イランや北朝鮮が核兵器を保有しようとすると軍事恫喝や経済制裁で締め上げるが、イスラエルの300~400発といわれる核兵器保有は黙認している。1993年のオスロ合意で「2国家共存」を決めた後も、イスラエルはパレスチナ人に対して、市民への軍事攻撃や虐殺をくり返し、ガザ地区は経済封鎖をおこなうと同時にユダヤ人の入植地ばかり拡大し、東エルサレムには分離壁をつくってパレスチナ人の通行の自由を禁止し、難民キャンプで生活することを強いてきた。
しかしここにきてアメリカのイラク、アフガニスタンへの侵略戦争は行き詰まり、シリア転覆も失敗して、中東支配は泥沼に陥っている。エルサレム首都認定からパレスチナ人虐殺まできて、アメリカを中東和平の仲介者と見なす者はいなくなった。アメリカの絶対的な力が失われ、覇権をうち立てようにもそれが重荷になるほどに国力が衰退しているが、一方で引き続きイスラエルの横暴極まる虐殺はくり返されている。東アジアだけでなく中東アラブ地域においても、絶えざる戦火と貧困を諸国民に押しつけてきた歴史、とりわけ米国覇権体制に決着をつけるたたかいが高まらざるをえない状況を迎えている。