6年生の頃、同じクラスの在日朝鮮人の女の子に向かって、隣のクラスの男子生徒が「朝鮮、パカするな!」と叫んでふざけ、もめたことがあった。女の子は保育園から一緒に育った仲間で、朝鮮名ではなく、通名で暮らしていた幼なじみだった。もともと彼女が在日朝鮮人であるか否かに関わりなく誰もが過ごしていたし、国籍を意識したことなどなかったのに、いつ頃からか父兄たちのヒソヒソ話を聞きつけた男子のなかから、「あっちの人」呼ばわりするのが出てきたのだった。そんな受け売りの行き着いた先が、「パカするな!」事件だった。何も悪いことをしていないのに、なぜ在日というだけで同級生に侮蔑されなければならないのかと納得のいかない感情がこみ上げ、まわりにいた友人たちも笑う者などほとんどいなかった。
下関で暮らしていれば、同級生のみならず在日朝鮮人の友人・知人たちが複数いて当たり前だ。帰化している人もいれば、通名で暮らしている人もいる。あるいは朝鮮人として誇りを持って、途中から通名改め本名を名乗って学校に通い始める友人もいた。
高校に進学して出会ったI君も、進学を機に朝鮮名を名乗り始めた1人だった。同じ出身中学の友人たちもいささか戸惑いながら、慣れ親しんだ日本名の呼び名から朝鮮名で呼ぶように切り替えていた。彼は両親の清掃の仕事を手伝いながらしっかりと小遣いを稼いでいた。同い年でありながらまるで自分の懐具合と異なることに驚いていたら、「バキュームカーの掃除を手伝ったら、親父が1万円のバイト代をくれるっていうんだけど、一緒にやる? そのかわり風呂に入っても臭いがなかなかとれないよ」と笑いながら誘ってくれたこともあった。そんな彼は色白で華奢なのだけど、高校生ながら夜の歓楽街にくり出して、20代の友だちと群れているようなところがあった。そのためか遅刻の常習者でもあった。決して遊びに溺れていたわけではなく、一方では生真面目に考え込んでいるようなときもあって、何か窮屈さみたいなものに抗いながら、それを奔放に壊しているようにも見えた。高校卒の肩書きなど、在日朝鮮人として生きていくうえで屁の突っ張りにもならないという結論だったのだと思う。次第に学校に来なくなり、2時間目に出てきたと思えば、昼前には帰ってしまうというようなことが増え、最終的に退学すると単身大都会へと飛び出していった。生徒指導の教師による「指導」には馬耳東風で、担任が「あいつなりに悩んどるんだ…」といつも心配していたのだった。
北や南を問わず、下関には在日朝鮮人がたくさん暮らしている。日本人と結婚して家庭を築いている友人もいる。その生き方は様様だ。文化や伝統、社会体制の違いがあったとしても、そのことを理由にして他民族を罵倒したり、蔑んで喜びに浸るというような振る舞いこそ排斥されるべきだと思う。旧い植民地統治の側の意識に引きずられるのではなく、日本社会の構成員として共に暮らしている現実に立って関係を切り結ばなければならないと--。
東京あたりの街角でヘイトスピーチなるものがくり広げられている一方で、ここ下関では公立中学校の子どもたちと朝鮮学校の子どもたちが共にサッカーチームを構成し、汗を流していることが話題になっている。少子化をきっかけにした混合チームの誕生ではあるが、彼らの世代が「あっちの人」「こっちの人」などという壁を乗り越え、敵対ではなく友好関係を切り結ぶことに未来がある。「圧力」ではなく、何事も対話を通じて互いを理解することなしには始まらないのである。 武蔵坊五郎