4300人が避難 仮設住宅着工はわずか1割
熊本地震の発生から3週間が経った。現地ではいまも大分から鹿児島まで連なる中央構造線の断層帯に沿うように1300回(震度1以上)を数える地震が断続的に続き、気が休まることがない。熊本県内では確認できるだけでも1万4000人(8日現在)がいまも避難所や体育館、車中などでの避難生活を続けている。六万棟以上の家屋が倒壊や破損したが、避難所だった学校からも締め出され、被災者にとって展望の見えない状況が続いている。現地視察した安倍首相が「できることはすべてやる!」といったものの、行政機能の麻痺が続いており、生活再建に向けた実効性のある公的支援は皆無に等しい。このままでは東北被災地の二の舞を招き、多くの人人が被災難民となる恐れが現実味を帯びている。地震を乗り越えたものの、生きるためのたたかいが過酷を極めている。
「国は何しているのか」の疑問 発行されない罹災証明
地震被害がもっとも激しかった益城町では、全壊家屋は1026棟、半壊も含めると5400棟にも及ぶ。瓦が落ちたり、斜めに傾いた家家の屋根にはブルーシートが目立ち、完全に原型を失ってガレキの山と化した倒壊家屋や、いまにも倒れそうな建物には応急危険度判定の調査結果を示す「危険」や「要注意」などの赤や黄色の紙が貼られている。地面には亀裂が入り、電気や水道の復旧もまだ半分しか進んでいない。
地震のたびに建物の崩れ方がひどくなり、雨漏り箇所も増えるため、人人は少しでも使えそうな家財道具や衣服などを家からとり出したり、ブルーシートなどで覆って瓦やガレキが崩れ落ちるのを防ぐ作業に追われている。
潰れた家のガレキを手作業で片付けていた50代の男性は、「地震発生から3週間、この家の駐車場で車中泊をしている。一緒に暮らしていた母親を県外の親戚に預かってもらい、使えるものを少しでもとり出す作業をしているが、取り出した家財道具を保管する場所もないし、ガレキ置き場になっている旧中央小学校のグラウンドも満杯で運ぶこともできない。最初は軽トラで運んでいたが、1日中100台以上の行列だった。いまは重機で動かさなければ家財道具もとり出せないので、ボランティアに来てもらうことも遠慮している。熊本市内に仮住まいのアパートを探すためには役場が発行する罹災証明書が必要だが、発行されるのは1カ月も先の話だ」と話す。
益城町では震災発生からおよそ2週間後の5月1日から罹災証明の申請受付を開始したが、いま申請しても、家屋の被害調査など諸諸の手続きがあり、被災者が実際に証明書を手にできるのは来月以降になる。いくら「義援金が配られた」「公営住宅が提供された」とアナウンスされても、罹災証明がなければそれらの公的支援を受けることはできない。行政の対応の遅れがすべての被災者の足かせとなっていることが口口に語られていた。
「4人家族なら家賃6万円以下の物件を“みなし仮設”として借りることができるというが、申込書を県庁までとりに行かなければならず車がない高齢者は不動産業者を回ることもできない。益城町はどの市町村よりも被害度が激しく、家を失った避難者も多い。震源地になった木山校区は水道も本管が破損して、復旧には1年以上かかる。災害医療では重症患者を優先的に救うトリアージなどの措置がとられるのが常識だが、このままではもっとも被害を受けた地域が最後にとり残されていくのではないかと感じる。他に住む場所のない私は、ここを更地にして小さい家を建てる他ないが、国や行政の方針が決まらず、あまりにも時間がかかりすぎて先の見通しがまったく立たない」とのべた。3週間もの車中泊は肉体的にも精神的にも限界に来ており、顔には疲労の色がにじんでいた。
菱形に傾いた家から引っ張り出したタンスや衣服を車に詰め込んでいた男性は、「熊本市内に住む知人の助けを借りてアパートを1室確保した」という。「立ち入り禁止」を示す「危険」の赤紙が貼られた家はいまにも崩れそうで、余震のたびに傾きがひどくなっている。「3週間も仕事を休んでおり、連休明けからは出勤しなければ生活ができない。自宅は立ち入り禁止だが、窓枠やドアを外して逃げ場を確保したうえで、アパートに運び込めるものだけとり出している。今後は崩して更地にするしかないが、解体費だけでも200万円はかかる。全壊判定を受けても20万円の補助ではとても間尺にあわない。行政の手でやってもらえないのならこのまま放置するしかない。いつまで経っても町や県、国の方針が出てこないが、じっと待っているだけでは立ち上がれなくなってしまう。潰れた車を廃車処分するにも印鑑証明が必要だが、役場機能がどこにあるのか定まらず、印鑑証明書の発行もできないといわれた。“がんばれ!”といわれても、これでは生活再建ができるわけがない」と憤りをのべた。
「じっと援助を待っているだけでは道は開けない」と個個人が一念発起して再建に立ちあがっても、地震被害の規模があまりにも大きく、町全体の生活環境が破壊されているため、行政単位での大きな復興方針や生活再建に向けた流れが示されなければ動きがとれないのが現状で、必要な情報が提供されず、行政機能が動かないままでは再建に向かう前に力尽きてしまうことが心配されている。
総合体育館で寝泊まりしながら家族で家の片付けにきている婦人は、「仕事に復帰するうえでも避難所での生活は厳しいものがある。夜勤を終えて早朝に帰ってきても周囲の人たちは起きているので休むことができないし、主人も明日から会社に出勤するが、弁当も作れない。朝ご飯も、夕ご飯も、お風呂も毎回一時間以上は行列に並ばなければならない。通常の生活感覚が狂って体調がおかしくなりそうだ」と話す。
最大に必要とされているのは生活拠点の確保だが、今月に入って町で着手した仮設住宅の竣工時期は6月中旬で、数はわずか160戸。必要数の10分の1にも満たない。しかも「余震がいつ終わるかわからない」との理由で、仮設住宅の建設予定地はほとんどが山際のグラウンドばかりで生活圏からは離れている。たとえ入居できたとしても移動手段のない高齢者は、買い物難民となって孤立する可能性があり、今後の生活を考えたうえで町の中心部に近い場所に建設を望む声は強い。
家が倒壊して、庭のビニールハウスで生活している農家の男性(40代)は、「両親が高齢だからいつまでもハウスのなかで寝泊まりさせるのはかわいそうだが、罹災証明が発行されないから新しい場所にも移れない。熊本市ではすでに罹災証明が発行されているから、借り上げ住宅の応募ができるが、被害の大きかった益城ではいまだに罹災証明が発行されず動きがとれない。こうやって被害の大きかった地域がとり残されていくのだと感じる。納屋が潰れて農機具も壊れ、田んぼに亀裂も入っているから今年の田植えは難しいが、農家は町外や県外の仮設や借り上げ住宅に引っ越すことはできない。できれば益城町内に住み続けられるようにしてほしい」と要望した。
予想をはるかに上回る地震被害で役場も被災し、住民の生活再建に必要な行政機能が動かない。そこを下支えする県や国のバックアップも乏しい。「県知事は学者あがり、町長は役場職員あがりで机上の論議ばかりだ」との批判も高まっている。
国として、阪神淡路大震災、東日本大震災などの数数の震災経験が住民保護の教訓として生かされておらず、放置されたような状態が続いている。
民間丸投げで支援打ち切り 閉鎖される避難所も
町内では、いまも4312人(8日現在)の避難者が、総合体育館や学校施設、運動公園の駐車場などで暮らしている。長引く避難所や車中の生活で、心身ともに疲労が限界に来ており、エコノミークラス症候群や食中毒などの被害も出ている。さらに、大型連休が終わる9日をもって、避難所となって休校していた小中学校が再開するため、各校に身を寄せていた約550人の避難者たちは別の避難所へと振り分けられた。
当初350人が避難していた広安小学校でも、校舎内の避難所は閉鎖され、現在は体育館に約140人、校舎には高齢者や体の不自由な人など約10人を残して、多くの避難者はアパートを借りたり、自宅に戻ったり、遠方の子どもや親戚を頼って避難所を出て行くこととなった。
50代の女性は、「被害にあった人たちが行き場がなくなり、どんどん町外に転出している。近所でも8軒あったうち4軒はアパートを借りたり、身内を頼って町外に出て行った。残った4軒のうち2軒も転出を検討しているという。町内ではほとんどの建物が被害を受けているから、借りられるアパートもない。被害の大きかった地区では水道もガスも復旧していない。今でも毎日給水所に水を汲みに行って、毎日3回配給や炊き出しに並ばなければならず、早く生活を立て直そうと思えば町外に引っ越すしかないのが現状だ。せめて土地だけでも売れたら、新しい生活の場を得る糧にできるが、地震被害を受けた土地は売れないし、価格も下がっている。この状態で放置されたら自力で生きていくことが難しくなっていく」と訴えていた。
1000人以上が避難する町総合体育館は高齢者や子持ち世帯も多い。地面に毛布を引いていた状態から、段ボールで底上げし、プライバシーを守るために間仕切りが施された。だが、各学校から振り分けられた避難者の受け入れによって人数が増えるものの、自衛隊による炊き出しも三週間をメドに打ち切られ、NPO法人やボランティアの善意による炊き出しに頼るだけの状態になった。夜になれば駐車場は車中泊の車で埋まり、3週間前とまったく変わらぬ過酷な避難生活がつづいている。
50代の女性は「1週間前くらいにようやく土足禁止になり、地べたから段ボールのベッドに変わった。それまでは空気も悪くて、長引く避難生活で弱った高齢者の人たちにはかなりきつい状態だった。自衛隊の炊き出しも3週間でうち切られ、今は3食とも廃棄直前のコンビニのおにぎりやパン、弁当が配給されている」という。「被災前はパートで働いていたが、車がすべて動かなくなったので出勤できなくなった。高齢の義母やペットもいるから、1人残して外に働きに行くわけにもいかない。家財道具を置いておく場所もないから家の片づけもできない。身動きがとれず、このまま3食の配給を受け続けるだけでは精神的にもおかしくなりそうだ」と再出発に踏み出せない現状を吐露していた。
駐車場で炊き出しの食事をとっていた女性は、「半壊した自宅には“赤紙”が貼られ、役場からは“大事なものだけもって速やかに出てください”と指示を受けた。だが行き場がないから3週間ずっと駐車場暮らしだ。車の置き場も限られているから、みんな出勤するときは駐車場にペットボトルなどを置いて場所取りをして夜戻ってくる。コンテナなど荷物置き場があればいいが、もうどこを探しても品切れで家財道具もとり出せない。頼みの綱の仮設住宅がたったの160戸。ゼロがひとつ足りないのではないか。登山家の人がテントを提供してくれているが、仮設ができるまでの間、行政がテントだけでも確保してくれたら少しは疲労が緩和されると思う。洗濯機もないのでコインランドリーに行くが、収入がないのに出費だけはかさんでいく。これからは気温が高くなるから車の中で熱中症になる人が増えるのが心配だ」と話していた。避難所運営も、炊き出しも生活支援も、民間の善意に依存するだけで、国や行政の大きなバックボーンが見えない。
60代の男性は、町の機能不全について「これまで益城町は、空港や企業団地を抱える比較的裕福な町で人口も増え続けていた。熊本市との関係では2回の合併計画を住民投票までして蹴った経緯もあるほどだ。だが現町長は昨年の選挙で課長から当選したばかりで、国や県の判断に忠実で、法令や規則に沿ってしか判断が下せないのではないかと思う。仮設住宅も、土地がないなら必要な農地を借り受けて建設することもできるはずなのだが、すべて対応が後手後手だ。建設するのは県の役割だがこれも機能していないし、国が予算を面倒見るから用地交渉だけやってくれという方針にもなっていないようだ。これまでの各地の災害被災地からアドバイスを受けて先手を打つことができないのか」と話していた。
2万8000棟が全半壊し、6000人以上が避難生活を送る熊本市内でも「住居の確保」は死活問題となっており、提供されたわずか250戸の市営住宅には平均倍率15・8倍の応募が殺到した。なかでも中央区の10戸の市営住宅への応募は90倍にのぼり、大多数が生活拠点が定まらず先の見通しが立たない。安倍首相が現地に視察に行って「仮設住宅をつくる」「要望に応えて財政面でもできることはすべてやる!」と意気込んで見せたものの、被災地の現実は3週間前とほとんど変化がなく、明るい兆しが見えてこない。行政の麻痺状態も、政府主導で進めた行政改革で、市から県へ、県から国へと権限を移譲し、職員を減らしてスリム化を進めた結果、大規模な災害時においてまともに機能しない現状を暴露している。
災害に便乗して「緊急事態条項」の新設など権限拡大をもくろむまえに、国が必要な予算を確保するなど全責を負って被災住民の生活再建を保障することが待ったなしとなっている。